被愛妄想
 
   不眠症の処方箋 →  眠れない夜のために に変更
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28855833.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
被愛妄想とは、自分は愛されているという妄想です。ストーカーなどにみられる妄想です。妄想の特徴は、異常な確信、非合理、訂正不能、と言われています。シャロームが精神病かどうか、妄想体質かどうかは知りません。しかし、3つの条件がそろっています。そして、それは、彼の信仰?になっているのです。そして、被愛妄想は、否定されると被害妄想を生じやすく、他罰的となります。しかも、彼は、権威主義によって、いつも教えたがるから要注意です。
 
今回の記事は、シャローム自身が、いかに神に愛されているか、ということを言いたいようです。神を相手に、公共の場で、それを言っているのです。導きを受ける側の単方向の都合の良い信仰?として、見苦しいとか、恥ずかしいとか、を考えないシャロームが全開です。
 
シャロームは、嘘を吐き、他者の言うことを受け取らず、柔和な見せかけをもって、整わない言説を言い張り続け、共感の必要を感じていません。そして、反省をしません。悔い改めをしません。すなわち、修正不能に満悦して、それを、広めようとしてきます。
 
それでも奇跡で救われるということが、誰にでも起こるなら、生きることは、とても簡単でしょう。そうなってはいないのが、今も昔も現実であります。
 
いつも都合の良いことばかり起こるとは限らない地上に生きるために信仰が必要なのです。全て悪いことは、人のせいにする、という強烈な合理化機制の辻褄合わせによって、シャロームは、求道者とキリスト者の前に、魔術に魅入られた害毒として立ちはだかります。
 
近況のしあわせ報告と、宛がっただけで妄想材料となって悪用されている聖句は省略します。シャロームは、50年を挫折の連続と言っていますが、その度に、不都合を他者のせいにして、省みず、自分を正当化し合理化してきたのでしょう。シャロームの言う挫折は、被害意識だけで加害意識が抜けているのだろうと、今までの遣り取りから推測しています。それが、シャロームの、平安、だったから。
 

ソロモンの言葉のように
人はだれでも朝から夜まで汗して働かなければならなりません。
食べる為のパンを得なければならないからです。
時として生活の不安や焦りや生きる虚しさを感じる時もあります。
生きていくことには眠りを妨げる苦悩はつきものです。
しかし、ソロモンは神は神を愛する者に眠りを与えられるというのです。
だから、たとえ生活に苦しさがつきまとっても、心配することはないと言うのです。

 
信仰は、安らぎと忍耐力を与えます。しかし、シャロームは、安楽を求めて得られる信仰?を説いています。勘違いしないでください。いったい誰がシャロームのような強烈な自己中心になって人生を全うできるでしょうか。
 

たとえ苦労はあっても、心から信頼することのできる存在を知っているなら、
安心して眠ることができると、語りかけているのです。
状況は絶えず変わりますが、信頼できる存在を知っているかどうかが、
これを決定するのです。
そして、安心して眠ることができるように、
信頼できる存在が「私」を愛しておられるのは確かなことなのです。

 
シャロームの信頼の対象は、ご利益を与える神であります。何があろうとも、安眠できる、というのは、シャロームが、何も、そして誰も、気にしないでいられるからです。シャロームは、あらゆる感受性と、あらゆる思慮を捨てたところにいて、心配のない幸福を説いているのです。
 
神が、自分を愛していると、公言しています。しかも、神の愛を、悔い改めの告白による慰めや癒しではなく、神を知っているから決定として、安眠を与えられると言っています。
 
神は、特定の人の身勝手な欲求を満たし続ける贔屓のような愛を無制限に与え続けるような御方ではありません。少し考えれば分かることを、シャロームは考えない信仰なのです。
 

ある時、イエスは弟子たちに向こう岸へ渡ろうと言われました。
漁師である弟子たちにとってガリラヤ湖は日常生活の場所で、
隅から隅までよく知っているところなのです。
ところが突然嵐が起こり弟子たちは恐れたのです。
その時のことが次のように記録されています。

 
そして、愛されていることの聖句として、奇跡を挙げているのです。
 

すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。
そこで、弟子たちはイエスをおこして、
 「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、
「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
 彼らは恐れおののいて、互に言った、
 「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」
(新約・マルコによる福音書4章37~41節)

 
シャロームは、風も海も従わせるような奇跡によって、安眠できると言っています。弟子たちでさえ怖がったというのに、弟子たちを下に見て、自分は分かっているから怖くないと言いたげです。
 
何でもいいから、奇跡を持ってきたという感じです。
 

イエスは次のようにも語りかけておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(新約・マタイによる福音書11章28~30節)

 
悔い改めさえする気のないシャロームが、キリストのくびきを、キリストの荷を、いつどこで負うというのでしょう。何も負わなくても休める話をここまでしてきたのです。
 

イエスは不眠症の処方箋を私たちに明らかにしてくださっています。
私たちの安心は状況が与えるのではなく、イエスさまがともにおられることにあるのです。
このことを知ることで、安心して眠ることができると約束している言葉なのです。
イエスさまは私たちに悩みがなくなるとは言っておられません。

 
シャロームとともにいるのは、いつでも波風を静めてくれて、安眠させてくれるキリスト?のようです。事実としては、シャロームは、嘘を吐いて反省せず、不正を行って悔いず、悔い改めないのに、一方的に赦されると言ってきたのです。
 
シャロームが、いつどこで、悩んだというのでしょう。シャロームにあるのは、快か不快だけだと思います。不快のとき、一切を無視して、その結果、何も感じない快のとき、神を聖書語を並べて讃美するという生業です。
 

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。(新約・ヨハネによる福音書16章33節)

 
この聖句の前には、キリスト受難の預言があるのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
16:31
イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
16:32
見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
 (ヨハネ書16:31-32、新約聖書)
 
シャロームは、救い主の孤独な受難に共感できないので、散らされることに相当する試練など考えず、無視していられるのでしょう。
 
戒める神も懲らしめる神も信じないで、都合よく奇跡を与えてくれる神だけを信じるシャロームが平安と呼ぶのは、身に起こる一切を不感不応で無視した末の、外からの情報も刺激もない安穏に他ならないのです。
 
ちなみに、シャロームは勇気を出す必要がありません。何故なら、勇気が必要な状況を、まるで意識しないからです。
 
試練のときの耐え忍ぶ信仰も勇気も考えないシャロームは、耐えられなくなったら、パニックになって大慌てで逃げ回る者となるでしょう。傍迷惑も考えず、何の備えにもならない被愛妄想の、もたらす結末を考えることは恐ろしい気がします。
 
アリたちの努力を無視して、ずっといつも、安楽だけを求めるキリギリスの話でした。
 
 
(2019年01月11日アップ、同日一部修正)
 
被愛妄想(ひあいもうそう)
宛がう(あてがう)
贔屓(ひいき)
生業(なりわい)
 
 
 
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