御心に適うとは
 
 
私たちは
どう考えても善に徹しきれない罪人であり
悪と背きへの誘惑がつきまとう存在だから
善行によって神の御心に適うなどということは
本来できない存在なのです。
 
そのことを認めない人は
神の御心に適うようにと思って
善の表面だけを装うようになるでしょう。
 
つまり
安らかそうな表情を浮かべ
迷っていなさそうな態度で
穏やかそうに話すでしょう。
 
しかしながら
私たちは自分でも知っているのです。
あるとき笑みを浮かべながら
実は怒っている自分や
そこまでいかなくても
ムッとしている自分がいることを。
 
つまり
悪人であり罪人である私たちが
うわべの善だけを表そうとすると
善の仮面だけになり、
そして、かえって
正直さを失ってしまうのです。
 
今までいっぱい書いてきたように
私たちが罪深く
しばしば悪い心を持つことを
神様は既にご存知です。
 
なのにどうして
完全な善の境地を求めようとしたり
得たかのように言う者がいるのでしょう。
 
それが無理なことは
神様が誰よりもご存じなのに。
 
神様は
私たちが罪の性質のために
好ましい善人になれないことを憐れむがゆえに
救いの手を差し伸べておられます。
それを知ることが信仰です。
 
神様の憐れみによって
善人であろうとか
罪を犯さないようにとかに
強迫的にならなくていいのです。
 
強迫性は
自分で強く念じて自分の心を縛りますが
むしろ病理のほうが強くて
心の自由を奪ったり
 
宗教の場合しばしば
出来ているという合理化機制を促進したりするので
むしろ信仰からは遠ざかる方向です。
 
信仰は神との関係です。
先ず神の前に
精いっぱい、できる限り、
正直であることを目指すべきでしょう。
 
人前では
どうしても完全に正直にはなれません。
 
他者というのは友であると同時に
ときに敵とならざるを得ないような
緊張関係を生む存在です。
 
向き合っている他者は
人として底知れず
不気味であり
何を考えているか分からないのに
何を考えているか知らないと困るからです。
 
どこか弱みを見せない気持ちや
飾る態度が表れます。
 
神様はどうでしょう。
キリストはどうでしょう。
 
神様というのは
信仰者が既に降伏している相手です。
今さら隠すものなどありません。
それに全知でありますから隠せません。
 
神と個人は秘密の関係です。
しかも神は
人にとって降伏している相手だから
余計な気遣いが要らないし
しても無駄なのです。
 
何を心がければよいかは既に今まで述べてきました。
 
私たちが罪の性質すなわち悪まみれでありながら
同時に良心として与えられている性質があり
 
 (その良心を信仰の邪魔だとして
  人間の思慮も共感も必要ないと捨ててしまって
  信仰の真実を受け取れなくなった背教者もいますが)
 
その正直を神様に見せることです。
それは
精いっぱいの正直として捧げることであり、
神様に捧げる誠実はこれだけでよいのです。
これしかないとも言えるでしょう。
 
つまり
人には秘密にせざるを得ないことでも
神様には言えることがあります。
 
悩み、苦しみ、悲しみ、
弱み、欠点、罪、そして、疑いまで
正直に告白するのが信仰です。
 
神様に対する正直を忘れてしまったら
私たちのうちに信仰はありません。
 
それだけが
神の御心に適う捧げものなのです。
 
人が悩むこと、苦しむこと、悲しむこと、
そして、罪、疑うこと、勘違いすること、
裏切ること、総て、神様はご存知であり
承知の上でキリストを遣わして
告白を待っておられます。
 
二千年前
人は皆ことごとくキリストを裏切りました。
 
そして今も裏切り続けています。
 
強いて言うなら
キリストは何度も私たちのために十字架についているのです。
 
旧約聖書エゼキエル書には何度も
私たちは、反逆の民、
私たちの家は、反逆の家、
そして、導きの言葉によって、
主であることを知るようになる
という預言が与えられています。
 
つまり
一時的に背いても救いの約束を
神様から破棄されることはないのです。
 
ということは
私たちが一度で救われようと思ったり
一度に悟ろうと思ったり
救われて不変、悟って不応などと決めつけることが
十字架の後は
信仰者の最も重い罪となったのです。
 
一方で、信仰者にとって、キリストの十字架は、
いつでも悔い改めてキリストのもとへ帰ることが出来る
という救いとなっていることを忘れないでください。
 
 
(2019年01月12日アップ)
 
適う(かなう)
破棄する(はきする)
悟る(さとる)
 
 
 
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