すり寄る者
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/under_the_figtree/33768420.html
   コメント欄より。
 
 
シャロームは、悔い改めない問題や偽善の問題を指摘されながら、何の解決の努力もせずに、無責任のまま、またしても、「ですね」口調の、白々しい讃美言葉で、キリスト教サイトに、すり寄っています。
 
(よなたん様の記事です)
イエスさまの肉を食べ、血を飲んでわたしたちは永遠の命を得ることができたのですから、他の人にも永遠の命を分け与えることができます。サマリアの女がイエスから命を受けたように、福音を宣べ伝えることによって、わたしたちは人の命を与えることができるのです。この宣べ伝えるという行動によって、イエスは栄光を受けることができます。これこそが、教会がイエスの体となり働くということではないかと思うのです。
 
 
(コメント欄から抜粋です)
 

(シャロームのコメント)
よなたんさん こんばんは
 サマリアの女は人目を避けて水を汲みに来て、イエスさまと出会い、イエスさまから生ける水を与えられ、うれしくて、水をくむことも、恥ずかしさも、ひと目を恐れていたことをも忘れて思わず駆け出したのですね。
そんなイエスさまとの出会い、交わりが生けるキリストの身体として建てられた教会の働きなのですね。
 
2019/1/12(土) 午後 9:35[ shalom ]返信する
 
 
(よなたん様のコメント)

> shalomさん
こんばんは
パンがイエスさまの体であるように、みことばもまたイエスさまです、世の光も地の塩もイエスさま。水という形であることもあれば、ぶどうという形であることもあります。
いろんな形でわたしたちに働きかけてくださっています。
そこにイエスさまの出会いを発見できたとき、わたしたちは幸いです。
 
2019/1/12(土) 午後 10:14[ よなたん ]返信する
 

 
(以後は私のコメントです) 

 
> shalomさん
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
4:26
イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
4:27
そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
4:28
この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
4:29
「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
4:30
人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。
 (ヨハネ書4:26-30、新約聖書)
 
あなたが言っているのが、この個所なら、あなたは、なぜ、悔い改めは必要ないと言ったのでしょう。
 
2019/1/13(日) 午前 3:24 st5402jp 返信する
 
何故、自由さんに、悔い改めの是非を問われたときには、悔い改めが必要と言いながら、悔い改めは、あなたの行為であるのに、悔い改めは神から与えられると言ったのでしょう。悔い改めは、人間の自由意志でなされなければ信仰は始まりません。
 
今日の私の記事からです。
 
悔い改めていないと問い詰められれば、キリスト者なら、必ず、いえ、悔い改めています!と答えて、問い詰めを激しくきっぱりと否定するはずです。代わりに、悔い改めは必要だが神が与えるとか、言わないはずです。そういう必然が、キリスト者にはあるのです。
 
2019/1/13(日) 午前 3:29 st5402jp 返信する
 

サマリアの女は人目を避けて水を汲みに来て、イエスさまと出会い、イエスさまから生ける水を与えられ、うれしくて、水をくむことも、恥ずかしさも、ひと目を恐れていたことをも忘れて思わず駆け出したのですね。
そんなイエスさまとの出会い、交わりが生けるキリストの身体として建てられた教会の働きなのですね。

 
キリストのことを、語り、讃美しながら、何故悔い改めをしないのですか。悔い改めをしたのなら、それは、どこに書いてありますか。
 
「ぞくぞくとイエスのところへ行った」人の中に、あなたはいるのでしょうか。キリストを、べた褒めするだけでは、信仰ではありませんが。
 
「うれしくて」と書いたのなら、サマリヤの女性に共感して悔い改めるはずですが、あなたは、人間の共感を、必要ない、とも言っていました。
 
また、ほとぼりがさめただろうと、ひとこと、言いに来ただけなのでしょうか。
 
2019/1/13(日) 午前 3:48 st5402jp 返信する
 
ずっと前に、私に、悔い改めは必要ない、悔い改めなくても罪は赦されるから、罪は気にしなくていい、などと言っていました。
 
そして、最近になって、自由さんに問われると、悔い改めは必要だが、神に与えられる恵みだと言って逃げました。
 
あなたのブログのどこにも、悔い改めたとも、悔い改めているとも、書いていないようですが、悔い改め、という、信仰の芯となることから逃げて、キリスト者にはならないはずです。
 
悔い改めたのでしょうか、それとも、前と同じように、悔い改めは必要ないと言いたいのでしょうか。あるいは、神のお告げでもあったら、悔い改めるが、まだだ、と言っているのでしょうか。
 
また、余計なお世話だと言われそうだが、キリスト者たり得ない者が、キリスト者であるかのように、キリスト教のブログに書き込むのは、不当だし、別のカルト的な目的があると疑われるから、聞いているのです。
 
2019/1/13(日) 午前 3:59 st5402jp 返信する
 
悔い改めが必要ないなどとは言っていないというのは、やめてくださいね。すでに、私のブログには、あなたのその発言について、何度も何度も書いてきたのです。私は、言われていないことを書いたりはしません。あなたが言い、その発言は、キリスト者として、さらに元牧師として、非常に問題だから書いてきたのです。
 
2019/1/13(日) 午前 4:05st5402jp返信する
 
聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:20
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
 (マタイ11:20、新約聖書)
 
 (イザヤ書、口語訳)
6:10
あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。
 (イザヤ6:10、旧約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:40
「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。
12:41
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。
 (ヨハネ書12:40-41、新約聖書)
 
2019/1/13(日) 午前 4:19st5402jp返信する
 
悔い改めというのは、人間として反省したことを、神の前に正直な祈りとして捧げることです。キリスト者は、信仰告白をしたからといって、洗礼を受けたからと言って、この地上で、罪がなくなる、ということはありませんから、悔い改めは、折々に、キリスト者の日常において中心になります。
 
これをしないのは、キリスト者としての日常ではない、すなわち、信仰生活ではないということなのです。それは、すなわち、サマリヤの女性について、コメントを書いて、共感をもって、讃美する資格はないということを表します。
 
2019/1/13(日) 午前 4:35st5402jp返信する
 
 
(2019年01月14日アップ、同日一部修正)

 
 

 
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