悲しみと信仰
 
 
偽善者は相変わらず
弁明が出来なくても何も感じないで
繰り返し言い張るだけのようですが
 
聖書でも現実でもネットでも
偽善者が悲しむのを見たことがないです。
 
偽善者は悲しみの感情を持たないのではないか
と思うことがあります。
 
聖書でも現実でも
偽善者の感情は
得意げに笑うことと
怒りと憎しみだけのような気がします。
 
 
深い悲しみは
抑制がかかって
鬱になることもありますが
 
心が沈んで
激しさが涙になるなら正常で
出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど
心を潤し
心を濡らして
悲しみを洗い流す作用があります。
泣けない時には人からも受容が必要です。
 
しんみりと悲しむことは
その沈んだ思いのうちに
猛る思いを静めて
内へと向かう思考によって
やがて内省することもできるでしょう。
 
悲しみを知る人は
悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。
悲しみの克服が喜びとなり
楽しみへ導かれることになるのでしょう。
 
 
悲しみを知らない人は
出口のない感情と思考のために
憤怒だけを
どこかにぶつけることになるのではないか。
 
悲しみを知らない人は
悲しめない不都合に際して
怒り、憎み、恨んで、
他者のせいにして鬱憤を晴らすのだろうか。
 
悲しみを知らない人は
不快な感情を処理するにあたって
焦燥感が強いあまり
他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。
 
そのような処理の方法は
他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。
特殊な性格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間
静かな思考に向かうか
それとも
停止と遮断に向かうか
衝動と攻撃性につながるか
という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか
正直に相談する相手がいるかどうか
 
モニターは反省に
正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において
悲しみは
悔い改めにつながる大切な感情のようです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、
おごらないゆえに、心貧しく、
うなだれるゆえに、慰められ
求める心があるゆえに、義に渇き、
むさぼらないゆえに、憐れみを受け、
余計なものがないゆえに、心が清く、
安らぎたいゆえに、平和を求め、
責められて受け止めたゆえに、
天国が与えられる
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける
と言ってもよいほどに
悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
(2019年01月15日アップ、同日一部修正)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]