悪と偽善
 
 
信仰者が
神の前で嘘を吐かないことは
神の前には
嘘偽りが通用しないことを知っているということであり
全てを見抜いておられる神に対して
信仰者が服従を示すことです。
 
それが信仰なのです。
 
人の前での態度は
そこから溢れてくるものであって
人の前での善行が
信仰の条件なのではありません。
 
神に救われるかどうかは
善悪ではないのです。
 
だから犯罪人も救われるのです。
 
神の前で
隠し、飾り、詭弁を弄する者は、
あさましい讃美言葉をいくら並べても
救いから最も遠い者です。
 
何故なら、そういう者は、神の前で
きれいごとや世辞の讃美を唱えれば
神の受けを良くすることが出来ると思っている者であり、
そのことが既に神に背いて
神を人と同じように見ることが通ると思う者であり、
すなわち神を舐めてかかっているからです。
これは最も重い罪そして偽善なのです。
 
世の中を見れば分かるでしょう。
 
罪人である人間のうち
最も凶悪な者たちは必ず偽善に走っています。
悪でありながら
嘘偽りで善に見せかける偽善だけは
神によって
永遠に赦されることはないのです。
 
偽善を悪と善の中間などと思わないでください。
 
神ではない私たちは
神の前に例外なく悪人であり罪人なのです。
 
 
神に救われるかどうかは
善悪ではないのです。
 
 
罪がないと言い張る者は偽善者であり
それは聖書に書かれているとおり
神の救いを拒むゆえに
神の救いの対象になり得ない穴へと滑り落ちてゆくのです。
 
偽善者は偉そうにしているから
よくないのは分かっている
などという次元の問題ではないのです。
 
偽善は最悪の悪であり
信仰においては唯一の最悪なのです。
 
偽善者は
神が憐れんで赦そうとしても
自分は
神に憐れまれる罪人ではないと思い込んでいる者です。
・・この問答を覚えてください。
 
つまり偽善は
神の憐れみを拒んで自ら正しいとすることで
神に対してダイレクトに背くことなのです。
 
少しばかりの善行を人に褒められたとしても
神の前に意味などないのです。
 
キリストの正義は
そして人の正義もまた
悪と戦うのではなく
偽善と戦うのであります。
 
偽善者は
人を騙して善人に見せかけます。
 
偽善者は神を信じてなどいないからです。
 
 
信仰者は
少なくとも神の前で
自分は善人だなどという言い分は
決して成り立たないことを知ってほしいと思います。
 
それを自ら弁えることだけが
神様のほうを向いて生きることなのです。
 
したがって、
全てを見抜かれる神の前に
精いっぱい正直に告白することだけが、
なお、神の民であることの唯一の証拠であります。
 
 
神の前に偽るような
偽善者にだけはならないでください。
それだけは決して赦されません。
 
 偽善者も聞かれると
 悔い改めは必要だと言います。
 しかし悔い改めたのかと問えば
 悔い改めは神に与えられるのだと言うのです。
 つまり
 神のお告げがあるまでは悔い改めないのでしょうか。
 神のお告げで自動的に口が動いて悔い改める
 とでも言うのでしょうか。
 結局、悔い改める気はないということです。
 詭弁の言い逃れをしているだけなのです。
 
 悔い改めないということは
 反省もしないということ。
 
悔い改めは反省する心を必要とします。
そして人間が自由意志によって
自ら進んで正直に神に告白することです。
どうか反省と悔い改めの機会を逃さないでください。
 
神は
造り給うたゆえ人を憐れみ
自由意志を与えた人間が罪深いことを憐れんで救いの手を差し伸べます。
 
 
(2019年01月16日アップ)
 
嘘偽り(うそいつわり)
溢れる(あふれる)
騙す(だます)
舐める(なめる)
 
 
 
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