多幸症讃美
 
   「いまはある者」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28862069.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
   転載元:「いまはある者」
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/34522705.html
 
 
転載記事です。シャロームは、自分で書けなくなると、転載をしてきます。転載元は、以前から、シャロームと交流のあるサイトです。ここでも、何度か、問題を指摘して、批判もしてきました。いかにもシャロームが気に入りそうな聖書語と讃美言葉のサイトです。
 
シャロームは、自分が書いたんじゃないから、と責任逃れをしたいのでしょうか。それとも、自分以外を批判させて、他者同士の争いを促して、注意を逸らしたいのでしょうか。しかし、批判は、この記事を是として選んだシャロームに向かいます。
 
現在、転載元サイトは、投稿が停止しています。そして、シャロームについては、嘘、偽り、偽善、悔い改めをしないこと、詭弁がいっぱい、など、キリスト者ならありえないような問題点が山積しています。
 
こういう事態を自覚しているなら、他者を巻き込むような行為は、控えるのが普通ですが、シャロームには、そういう気持ちも考え方もないようです。そこがシャロームの怖いところです。全く他者への配慮が出来ないのです。しかも、あとになっても、それを悔いることが無いのです。
 
これまでの記事とコメントで、シャロームが、悔い改めと信仰告白は神によって与えられ、人の思慮や感情は関係ない、という言説で、自身が悔い改めないことの弁明であるかのように見せかけた詭弁は、使徒ペテロを辱める詭弁でもあり、信仰告白に悔い改めが必須である、ということに真っ向から背いており、キリスト者としての自覚において致命的な欠陥であります。
 
悔い改めないことは、へりくだって神に対する従順への志向を拒否することであり、それは、神の導きによる信仰のさらなる新たな成長と更新を受け取らないことを表しています。
 
悔い改めは、罪の赦しのみならず、信仰の成長に必須なのです。
 
シャロームが、自身の悔い改めと反省以外の記事を、書いたり転載するたびに、いかに讃美言葉を並べても、その行為そのものが、状況を分かっていない、裏切りや偽善の自覚がない、反省する気がない、悔いていない、改める気がない、という証拠となります。
 
それは、そのまま、シャロームが、カルトであり、キリスト者ではないことの証明となります。何故なら、信仰の有無にかかわる重大な問題があることを無視して、何事も無かったように見せかける隠蔽と偽装という偽善だからです。私が、そう見なそうと見なすまいと、そうなってゆくのです。キリスト信仰への真っ向からの反逆を自分の意志で重ねることだからです。
 
 
(記事です)

 
神はモーセにご自身の名前をこのように言われた。
 
 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」
 出エジプト3:14
 
 神は永遠の初めからおられるお方、初めであり、終わりである方。
 イエスもまた、何度も何度も「わたしはある」と言われた。
 
 そして私たちにこう言われる。
 「あなたがたはない者だ」と。
 自分で好き勝手に生きていた者だったから。
 神から離れていることは、自分を見失うことなのだ。
 
 しかしいまは、御子イエスにあって、ある者だと。
 
 私たちは神の御前に死んでいたのに生き返り、
 いなかった者なのに、見つけられた。
 神との関係を和解と平和をもって、回復させていただいて、
 寄り頼んで生きる者とされたのだ。
 
 いまや、神の所有、息子、娘、家族とされている。
 そのことを喜ぼう、喜ぼう。ハレルヤ!
 

 
 
 (出エジプト記、口語訳)3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:14、旧約聖書)
 
神が有るというだけで、喜べるでしょうか。キリストが救うというだけで、喜べるでしょうか。そこに欠けているのは、神とキリストが関わって、人間はどうしたのか、自分はどうしたのか、ということであり、それこそ、聖書を読んだら、最優先に考えるべきことなのです。
 
「わたしは有る」と神が言ったら、それで、讃美するほどに、神を理解できるでしょうか。
 
「喜ぼう、喜ぼう。ハレルヤ!」と書けば、喜びが伝わるでしょうか。
 
あとは神に任せるのです、と言うなら、できることは全部したのかと、問われないでしょうか。
 
ときに、信仰者の精神が、信仰の多幸的な陶酔気分であることがあり、まれには、陶酔気分を求める傾向があります。さらには、それが習慣となっている人もいるようです。これは、不自然で、ときに無理のある多幸気分に過ぎませんから、その気分で書いた讃美は、多幸症の産物となり、説得力がなくなります。信仰は、多幸症でも陶酔気分でもありません。
 
考えなくていいから、とにかく信仰、それだけで嬉しい、という記事を、シャロームは、この上なく好みます。シャローム自身が、理路を考えることも、情緒を深く感じることも、嫌で嫌でたまらない人だからでしょう。シャロームは自分にとってだけの大好物をブログというテーブルに載せて満悦したいのでしょう。
 
シャロームは、丁寧語と聖書語で讃美しまくって悦に入るような記事をたくさん書いてきました。一方で、悔い改めを忘れ、真実を忘れ、信仰を忘れて、こんなに讃美しているのだから、自分は立派な信仰者とばかり、上から目線になり、悔い改めないカルト的な信条を、嬉しそうに語り続けて、困ったら、揶揄したり、「(笑い)」で嘲笑ったりするような偽善者として、自他を破壊してきました。
 
福音伝道は、信仰の幸いを人々に伝えることです。それを、神がいるのだから、とにかく喜ぼう、という書き方で、何が伝わるのでしょう。贔屓にしてくれるお仲間が、無難な記事だと安心するだけでしょう。
 
和解、平和、回復、生きる者とされた、と言うだけなのは、そう書けば、そう伝わる、という思い上がりでしょう。あるいは、そう思えるほど、自分の信仰は厚いのだ、自分はそれほど信仰しているのだ、という自慢でしょうか、自己顕示でしょうか。
 
 
シャロームには、悲しみの感情がないように思われます。そのような表出や表現が、今まで見られないからです。シャロームの感情は、快不快、すなわち、快ならばとにかく嬉しがり、不快ならば不機嫌から怒りや憎しみになり、文章には揶揄による嘲笑いが見られるようになります。
 
シャロームは、聖書をろくに読んでいないと思います。少なくとも理解していないことが、多々、明らかになっています。神があらわした(聖句) → 神から与えられた → 自分は何もしなくていい、というように、神の導きを、悔い改めないことの言い訳に平気で使う人です。
 
そういうことだから、ペテロの、イエスが救い主であるという信仰告白も、ペテロの思いではない、神が与えたから神に口を動かされて言ったのだ、つまり、ペテロの放心状態か脱魂状態での発言であるかのように見なしている、という、とんでもない解釈を書いてくるのです。
 
悔い改めの告白も、信仰告白も、神の導きを受けてのことなら、信仰者の清明な意識と自覚と感性によって、為されなければ意味がありません。放心状態でも脱魂状態でも陶酔気分でもないのです。人間の明確な自覚としての告白だからこそ、その後の人生に生きてくるのです。
 
出会った、よかった、救われたと書くだけなら、さらには、死んでいたが生き返った、などと、乱暴な聖書語で書くなら、人間にとって、何の救いにも癒しにもならないでしょう。シャロームのように、それで満足する人は、人間の気持ちを察することが出来ずに、何でもかんでも、神が起こす奇跡と言ってしまうことになります。
 
 
神は永遠の御方、キリストは救い主、おかげで死んだのに生き返ったという超常表現、こういう讃美言葉だけで出来ている文章に欠けているのは、なぜ、その言葉が喜びにつながるのか、ということです。
 
キリストとの出会いは、悲しみのときに、癒される体験となる、というのは、私の体験でもあります。心の癒しは、魂の奇跡として体験され、少なくとも滅多に起こらない物や肉体への奇跡よりも、はるかに一生を支える賜物となります。
 
そういうことを私は努めて書いてきたつもりですが、私の言うことが絶対に正しいというわけではなく、さらに心を動かしてくれる意見に出会ったら、私は意見を修正するでしょう。そうやって私も成長したいのです。
 
 
信仰についての体験談で感動することはあります。しかし、シャロームが語った体験談は、苦労話と、病気が治ったという奇跡の話でした。「超常体験?です(笑い)」という書き出しでした。この「(笑い)」は、「超常」という誇大的な言葉についているので、謙譲の笑みではなく、相手つまり私への揶揄ということになります。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19894145.html
 
こういう揶揄表現で、しかも、滅多に起こらない奇跡の話をわざわざ言ってくるのは、ご利益宗教を求めている人でしょう。まさに、シャロームは、キリスト信仰ではなく、ご利益にしがみついているのだろうと思います。
 
 
信仰について、書くときに、また、語るときに、聖書や教理に合わせようとして、忘れやすい大事なことは、聖書でも、現実でも、自分についても、キリストに対して、人間がどう関わったか、また、関わるかということです。そこに、人間の、心の弱さや貧しさ、へりくだる姿勢、そして、キリストの共感と慈しみが、溢れているのです。
 
そこに、私たち、今の信仰者が、キリストに対して、キリストの慈しみと共感に対して、どう関わって生きてゆくか、ということも表れているのです。限りある人知をもって反応する生き物である人間にとって、体験上、御言葉は、人間の想像や推測や思考を掻き立てながら、受けて答える、という信仰の双方向を促進するからです。
 
 
(2019年01月17日アップ)
 
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