信じるとは
 
 
聖書は、
言葉の辻褄合わせだけの教条主義ではなく、
ありがたやの讃美だけで良い気持ちになって
何か良いものをくださると信じることでもなく、
 
人間が救いを求めて読むからには
生きて現に傷ついている人間のために
遣わされた御方に導かれるところの
救いと愛を読み取るからこそ
聖なる書と呼ばれる。
 
聖書を読んで信じるということは、
書いてあることが書いてある通りに
あったと信じることではない。
それだけでは生きる力にならないからだ。
 
前から言っていることだが、
奇跡を史実と信じ込むだけで
どうして生きる力になるというのか。
実感のない思い込みが増えてくるだけだ。
 
聖書を読んで信じるということは、
そこから
生きるための真実を見出し
生きる力を受け取ることである。
 
聖書は
単なる歴史書ではない。
暗号解読の謎解きクイズでもない。
お伽噺や魔法の書でもない。
 
そこに書かれているのは
人間が生きるのに必要な真実であり
 
人間が陥りやすい過ちや悪から
立ち直るために説かれているので
真実の書となるのである。
 
そこに書かれている神とキリストは、
いつもニコニコ笑って
何でもあげるよと招いているのではなく、
 
命を懸けて
人間の悲しみを理解し共感するからこそ
いのちの書と呼ばれるのであり
ゆえに
神とキリストと聖霊と呼ばれるのであり
聖三位という神聖の名で呼ばれるのである。
 
すなわち
聖書に書かれている中心は
神とキリストのことだけが目的ではなく
すなわち、神聖なる超常のことではなく、
 
神とキリストに仕えた立派な人の話でもなく、
 
救われる必要があるのは人間に他ならないから
信仰は人間のためにあるのだから
人間のことが書かれているのである。
 
私たちのことが書かれているものとして
聖書は読まれるべきである。
 
特にキリストと人間のことであり
そこから神と人の双方向の信仰を読み取らなければ
人間にとって
聖なる書とはならないのである。
 
聖書は
人間のために書かれたのであり
救われる人間のために、キリストが表すところの
負いやすい荷が、祈りが、愛が、書かれたのであり
 
人間に可能な、救われるための節操と、込められた愛と、
救い主のいのちに呼応する心のことが書かれている。
 
 
(2019年01月18日アップ)
 
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