書いたつもり
 
   condemnation と conviction
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28864377.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
毎度、言い逃ればかりのシャロームの記事ですが、なぜ、英語を使う必要があるのでしょう。学があると言いたいのでしょうか。恐らく何かからの引用だと思いますが、引用元を明記しないシャロームです。
 
でも、見つけました。下の記事の後半のようです。(2019年01月19日午前0時24分現在)
https://blogs.yahoo.co.jp/koroba121/38450519.html 
この引用元記事の画像は、引用元を示さないで、自分の記事に載せるシャロームを指しているようにさえ思えます。どこまで卑怯なのでしょうね。
 
>condemnation と conviction
 
condemnationは、非難。convictionは、確信、信念。
なぜ英語を使う必要があるのでしょう。
 

神を信じるあなたたちの中にも、人の罪を責める(condemning)考えを聞いたことのある人は多いでしょう。こうしたことを言うのは神ご自身だと思う人さえいます。友よ、とんだ考えちがいです。あなたがどんなにダメ人間かなんて、神様はけっして言いません。イエスさまは言います。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書12章47節)

 
ダメ人間とは、前に、カルトが私の個人情報をばらして言った悪口です。非難にもなりません。根拠がないからです。人間ならば、言わないことです。シャロームは、批判と悪口の区別が出来ない人です。何度言っても、同じことを返してくるのです。
 

condemnationとは何か
condemnationはサタンから来ます。あなたを傷つけることがねらいです。condemnationはたえず、あなたがどんなにダメ人間か、これまでどんなに失敗ばかりをしてきたかを指摘します。condemnationはあなたに問題を示しますが、解決は示しません。

 
反対者を悪魔呼ばわりするというカルトと偽善者の常套手段を、シャロームは振り回します。もはや、通用しないのに、また、書いてきます。そして、神に、敵を滅びを祈り念じるのがシャロームの常套手段なのでしょう。
 
根拠を示して、反論できず、弁明できない者が、使う手段なのです。シャロームは、失敗も、ダメも、悪も、嘘も、偽善も、自覚できないので、不感不応で、同じ言い逃れを向けて、同じ悪意を表してくるのです。
 
シャロームは、人間に分かる根拠が示せないので、超常の神?と悪魔?の名によって、人を傷つけることが狙いです。
 
>イエスさまが来られたのは世をさばくためではありません(ヨハネによる福音書12章47節)。
 
自分が裁かれそうになると偽善者は、この聖句を持ち出します。書いてある、書いてあると、自分に都合の良い聖句の言葉尻だけを挙げてきますが、シャロームは、いかなる聖句の救いにも赦しにも背いています。反省せず悔い改めないからです。
 

イエスさまの中にcondemnationはありません(ローマ人への手紙8章1節)。一方サタンは、兄弟たちを告発する者として知られています(ヨハネによる黙示録12章10節)。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:1
こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
 
シャロームは、悔い改めを拒否したので、キリスト・イエスのもとにはありません。キリストの言葉を悪用する者です。さらに、シャロームは、黙示録を持ち出していますが、その前に、シャロームは、福音書にある救いに相応しくないのです。
 
シャロームは、性懲りもなく、またしても、何もしなくても、反省もしなくても、悔いなくても、改めなくても、赦される、という、救いの自動販売機の話をしています。全く真剣に信仰を考えておらず、言い逃れに汲々とするシャロームです。
 

あなたがどんなにダメかなんて神様はこれからもけっして言いません。どうしてでしょうか。イエスさまが言われたからです。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書12章47節)

 
シャロームは、同じ聖句を同じ記事に二度挙げて、何が言いたいのでしょう。悔い改めない者は、パリサイ人と同じで、この記事に表れている通り、自己を正当化しようと、他者を婉曲的に否定し責めながら、悪あがきをするだけなのです。聖句の恣意的引用に逃げているとは、何度も言ってきたことです。
 

convictionとは何か
convictionは聖書の中では、神様のあわれみとして知られています。聖書には、神様のあわれみは私たちを悔い改めに導くものであると書かれています(ローマ人への手紙2章4節)。condemnationはあなたに言います。「おまえはなんてダメ人間なんだ!自分のやったことを見てみろ!」。一方convictionはあなたに言います。「わたしのもとに来なさい。ゆるしてあげよう。」

 
悔い改めに導く、と言いながら、実際には、シャロームは、悔い改めたことが無いのです。悔い改めれば、書いたものに、その変化が表れてくるはずですが、それが、シャロームには全く見られないのです。これも、最近、何度も言ったことです。シャロームは、批判者を疲弊させることだけが目的のようです。
 

神様はあなたの罪をよろこんでゆるそうとするばかりではありません。神様はゆるしたいと切望し、ゆるすことを深く深く願っておられるのです。イザヤ書30章18節には次のように書いてあります。「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ主はあわれみを与えようとして立ち上がられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」

 
どんなに讃美言葉を並べても、赦したいと深く深く願っておられる神に対して、シャロームは、悔い改めをしない、という背きだけを返してきたのです。
 

ヨハネの第一の手紙1章9節をみてみましょう。「自分の罪を告白するのなら、神は誠実で正しい方ですから、私たちの罪をゆるして下さいます。そしてあらゆる不義から私たちをきよめて下さいます。」
ローマ人への手紙2章4節:「あるいは神のあわれみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

 
神は導くのです。しかし、シャロームは、悔い改めないのです。そして自己正当化ばかり、繰り返すのです。その結果、嘘、偽り、悪口、当てつけ、嫌がらせ、あざ笑い、自己正当化、といった偽善だけになっています。シャロームは、まさに、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじて、さらには、無視して、無理な妄想の救いをわめいているのです。
 

convictionはあなたの抱えている問題に解決を示します。convictionはあなたに、あなたの罪を洗い流すイエスさまの血を見せます。
何がちがうのか
convictionはあなたに解決を示します(つまりイエスさまの血です。イエスさまの血が罪を洗い流します)。一方condemnationはあなたに問題を示します(罪と過去、あなたの失敗です)。condemnationはあなたに問題を示しますが、convictionはあなたに解決を示すのです。

 
シャロームの conviction 確信も信念も、悔い改めなくても偽善も赦され救われるから罪は気にしなくていい、という、真っ向から神に背く妄想です。まだ言ってる・・
 

condemnationは叫びます。「おまえの過去!おまえの罪!ダメな奴だ!」けれどもconvictionは叫びます。「イエスさまの血が罪を洗い流します。イエスさまのもとに来て、罪をゆるしていただきなさい。あなたの罪と過去はもうあなたの一部である必要はありません。」
神様のゆるしの本質を理解すること

 
神に背いているのはシャロームという人間です。主イエスのもとに、すなわち、祈りにおいても、言論においても、罪を認めず、非を認めず、救いをことごとく拒否しているのは、シャロームという者です。
シャロームは、赦しの本質を理解していないし、本質に背いているということ。
 

神様のゆるしの本質とわたしたちを過去から浄めたいと願っておられる神様のねがいを理解することはとても重要です。罪のゆるしは、神様のゆるしの本質を示す偉大な教えなのです。

 
神様のゆるしの本質は、悔い改めに基づいています。神様の願いも、人が悔い改めることです。このことはとても重要です。悔い改めは、神様の赦しをいただくための信仰の本質です。
 
どうか、シャロームから、赦しの本質が聞けるなどとは決して思わないでください。彼は、何もわかっていません。そして、真っ向から背いて、悔い改めの機会を無にして、真っ逆さまに堕ちて、口だけ、偉大な教え、と言いますが、飾りばかりの言説で、内実は、うなりながら、餌をあさる野良犬によく似ています。もう、よだれを垂らすのは、やめなさい。臭すぎる。
 
 
赦しの機会を無にして、シャロームのように、自分に不都合な話を受け取らず、偽善の常套手段に走って、都合の良い言葉だけを集めて、唾を飛ばして繰り返し、同じことを喚いて、さらに堕ちてゆくようにならないために、信仰の節操と弁えがあります。
 
神の前では、全ての人間が罪人であるから、罪を自覚して悔い改める人を、神は赦し、癒し、導きます。
 
悔い改めない者、詭弁を弄する者、聖句を悪用する者、自己正当化に走る者、他者を逆に責める者、正面向いて言えないために嫌がらせをする者、やたら外国語を引用して、やたら他者の文章を引用して、ますます信仰者としての基本的な知恵さえ持たない者、それでも余裕で教えているつもりでいる者、そして笑って見せる者、感じない、考えない、受け取らない、成長しない、そして、ただただ言い張りだけになる者、これが、偽善者の成れの果てです。
 
こうなってはいけない、こうなったらおしまい、そのような見本を、シャロームは、これからも、あらわにしてゆくつもりなのでしょうか。悪と罪においても、珍しい極端な反面教師です。
 
神の赦しと救いには、神の前に正直に告白して悔い改めることが前提であります。その前提を弁える人間をキリスト者と呼びます。聖書を通じて、そうなのです。
 
そのことを、シャロームは完全無視して、やたら結果の、救い、赦し、だけを、偉大と誉めまくっていることを見逃さないでください。彼の安い讃美言葉に騙されないでください。
 
※ シャロームからのコメントおよび内緒コメントに注意してください。
 
 
(2019年01月19日アップ、同日一部修正)
 
詭弁を弄する(きべんをろうする)
節操と弁え(せっそうとわきまえ)
騙す(だます)、騙る(かたる)
 
 
 
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