砂のような黴のような
 
   いのちのパン
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28864467.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   
   類似記事が、こんなにいっぱいあります。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27899280.html
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27405956.html ―――(1)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19694661.html
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/12669226.html
  
   私も、(1)の記事の、コメント欄について批判記事を書いています。
   しかしコメントは、すべて削除されました。
   
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18423721.html ―――(2)
   まったくシャロームは、言論の自由と責任について何も考えない人です。
 
 
先ず、私が(2)に書いたことをいくつか抜粋して再録しておきます。
一部、再編集してます。
 
(引用はじめ
 

stさん、私はあなたと違って、あなたのコメントを歓迎していません。くりかえし削除すると伝えています。それでもコメントをするあなたは荒らしなのです。
誰が何を言っても自分の正当化しかできない、他者の非難中傷しかできないstさん、これからもstさんからのコメントは荒らしコメントとして削除することを伝えておきます。

 
言論において、双方向を拒み、ブログのルール上の権限によって、コメントを、未承認にしたり、削除したりする人は、言論の常識と民主主義の常識において、一方的な態度と見なされ、法律やルールではなく、言論者として、一方的で、自己中心的な行為です。
 
もし議論を拒むのであれば、誰にも見せないことです。公表した時点で文責は生じます。あなたの言い訳は成り立ちません。
 
(加筆)批判と荒らしの区別の出来ないシャロームです。都合の悪いことは全部荒らしと呼ぶのです。その精神から、いくら書いても削除するぞ、といっています。
 
易坊のコメントを承認しています。削除と不可視化は、言論者として不当だと思うからです。
 
>易坊さんは易坊さんの考えと易坊さんの責任でstさんにコメントされたのです。
 
(加筆)易坊は、シャロームの味方をして、私のブログを荒らしました。
易坊とシャロームは、仲良しです。そして、易坊は荒らしです。
  
 以前にシャロムの書いたコメントです。記事:「救いは神の恵み」
  
「 > st5402jpさん
  お帰りなさ~い!せっかく易坊さんから親切に声をかけてくださったのに、
  何も得るものが ありませんでしたか。
   ・・・
  2016/3/31(木) 午後 8:19[ shalom ] 」
 
易坊と仲が良いことを私に示すコメントであることは確かでしょう。
 
荒らしと共同で、私の批判を退けようとしました。
次のように、荒らしと共同で攻撃したこともあります。
 

またstさんのコメントをいつも削除していますので、初めてコピペして、送り返してみたのです。stさんは送り返した私を荒らしだと言われましたが、もともと荒らしコメントとしてstさんから送られたものなのです。

 
私が、シャロームに書いたコメントを、私のコメント欄にコピペしてきたのですが、意味不明です。嫌がらせとしか思えません。私は、腹が立ったので、コピペして返しました。
 
表現の自由には責任が伴うこと、知らなかったとは言わせません。
 
>神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです
 
神に任せることをしないで、自分で強制力で、偽善を隠蔽したのは、あなたです
 
いつまで、誤魔化そうとするのですか。隠蔽する必要があれば、神が隠蔽するでしょう・・と考えれば、隠蔽が、あなたの欲望から来ていることは、明らかです。
 
理路も、道理も、気持ちも、流れも、文脈も、全部無視して、被害者面するのは、やめるべきです。
 
好きなことを書けばいい、というような、信仰と趣味を同じに考えるやり方が、通用するわけはないのです。覚悟をもって書くべきであり、覚悟がないなら、宗教については、ここでは、キリスト信仰については、書いてはならないと思います。
 
以上の私のコメントも、すべて削除されました。
シャロムは、趣味や日記的ブログでの、好き嫌いの自由を、信仰という、間違えばカルトにもテロにもなりかねない、大きなテーマに、勘違いして混同して当てはめているようです。だから嫌いだったら拒否していいと思っているようです。また歓迎していないとシャロムは言っていますが、批判ですから、それは承知の上です。
 
 引用終わり)
 
 
シャロームは、何度も同じ記事を書いてきます。新しい記事が書けないのは、訂正不能となり、不感不応で、他者をを無視して、自己満足だけを求めてきたからです。
 
書くことで、また、罪と偽善と恥の上塗りをするわけですが、罪悪感が欠如しているので、平気でいられるのでしょう。それにしても、コメントをすべて削除した偽善の証拠に結び付く決定的なタイトルの記事を再び載せるとは。
 

今日の聖書のみことばです。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、
 世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(新約・ヨハネによる福音書6章51節)
私たちが生きていくのにパンを必要とすることは言うまでもありません。
ある人は信仰のことを話しますと、神を信じるのもケッコウだけど、
 神が食べさせてくれるの?なんていう人があります。

 
殆ど、いないと思います。いつまで、古い文言をなぞって満悦しているのでしょう。
 

 確かに私たちはパンなしに生きていけるわけではありませんが、
しかし、決してパンだけで生きていけないことを忘れがちのようです。

 
生き方をどうすればよいかで悩んでいる人は多いと思いますが、忘れがちというほどではないと思います。シャロームは、賢いのは自分だけであるかのように、無知な者どもに教えてあげるみたいな立場から、他者を舐めた書き方をしてきます。
 

 日本は世界で豊かな国といわれていましたが、今はどうでしょうか。
 残念ながらそれは命の豊かさではありませんでした。
 時にはモノの豊かさがかえって私たちの心の貧困を招いてしまうようです。

 
シャロームは、その独善的信仰?そのものによって、貧相で卑怯なふるまいを繰り返します。
 

この貧しさはパンでは満たされない空腹感なのです。
この空腹感が満たされないと、人としての存在感も生きている充実感も無いのです。
 心に痛みを抱いている人はよく食べます。ひっきりなしに食べ、食べては吐き・・・
 まるで食べることで心の飢えをいやそうとしているようです。
 食べ過ぎているのに心は空腹感と孤独感という心の飢えに耐えられないのです。

 
過食症は信仰欠乏症?なのでしょうか。幼稚な短絡思考で、過食症まで、自分と同じ信仰?が無いからだと言いたいようです。
 

 先進諸国といわれている国は飽食の状態にあるといわれています。
メタボリック・シンドロームはからだの問題以上に心の問題でしょう。

 
メタボが信仰で治るとでも思っているのでしょうか。何でも自分の信仰?に結び付けているようです。こういう全か無かという書き方をシャロームはずっとしてきたのです。
 

 一方アジアやアフリカでは食べるパンが無くて、飢えている人がたくさんおられます。
ところがそこで生きている人々の少しのパンを分け合って食べる
心の豊かさに驚かされるとNPOの働きによって聞きます。
 私も貧しさがどんなに辛く、いやなことであるかを知っています。
 今世界の人口は75億を超えています。
私たちは私たちの心と生活を本当に豊かにするのは、
 決してパンの豊かさによるのではないことを知ることが大切だと思います。

 
一見、世界を案じているかのようですが、自分の狭い了見で信仰と世界をボロクソ節で語ることに酔い痴れているだけだと思います。
 

イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」と言っておられます。
 私たちが働いて地から取られたパンは身体を養いますが、
 決して心と命を豊かにすることが出来ません。

 
シャロームは、キリストと神の前に、上に書いたことだけでなく、おびただしい裏切りがあり、そのことについて、告白と悔い改めをしていません。ボロクソ節有頂天から、理路も道理も情緒も解しない砂岩のような精神で、ボロボロの砂を撒いてくるのです。
 

 人はそれができると錯覚して砂漠に蜃気楼を追い求めてさ迷っているようです。
そして大地も心も生活もますます砂漠化しているのです。
その砂が私たちの健康と生活をおびやかしています。

 
ボロクソ節全開です。
 

 私たちの命は生ける神から与えられ、生かされているのですから、
 天から、神が与えてくださるパンによらなければ、私たちの命を豊かにすることはできません。

 
ここからは、キリストの断食、悪魔の誘惑、バベルの塔、などを挙げて
人間の営みと歴史をボロクソに言います。これがシャロムのボロクソ節です。
その際、自分だけは高みに立って悪から除外して豪語するのです。
今までも、そのように書いてきて、散々批判されて、それでもまだ、このような書き方をしたがるシャロームは、訂正不能によって、学習機能がゼロになっているという証拠です。
 

イエスは「私を食べなさい。そうすればいつまでも生きることができるであろう」と
言われます。この謎めいた言葉はイエスを信じて、
飢え渇く心に受け容れることによって解き明かされます。
 私たちはパンを食べるときには口にパンを入れます。
イエスは天から降って来た命を与えるパンなのです。

 
キリストを、天から降ってきた命を与えるパンと言って、満悦するシャロームです。
 
命のパンは、キリストの前に、罪を認め、悔い改めて生きる人間に与えられるものです。
 
シャロームは、命のパンを食べてはいません。シャロームは、悔い改めを拒否しています。その言い逃れに、悍ましい詭弁を弄したことは、すでに何度も書きました。
 
シャロームは、自己顕示と自己中心の欲望のために、キリストも神も聖霊も福音も聖書も、その神聖の名を食い物にしているだけです。
 
>信仰は心という口を開いて食べるのです。
 
信仰は、人間の心や共感を必要としないと、シャロームは、何度も言ってきたのです。
 
シャロームは、浅ましい讃美言葉で騙そうとします。また、私?という荒らしにやられて困っているふうの芝居をして取り入ろうとすることがあるかもしれません。そういう社交の世辞のような、芝居に騙されて、熱心な信仰だと受け容れる人もいて、その人が今度は、他者を気にしない自己中心の生き方を宣伝しているようです。
 
このようにシャロームは、伝染する病原でもあります。それが偽善なのです。どうか、批判的な見方以外では、決してシャロームに関わらないでください。シャロームが、砂のように無意味でカビのように古い常套句の浅ましい讃美言葉と詭弁を弄して、福音伝道を乱す記事を書く、ということを止めることは、当分、期待できそうにありません。
 
※ シャロームからの、コメントおよび内緒コメントには、丁寧さに騙されないように、十分注意してください。
 
 
(2019年01月20日アップ、同日一部修正)
 
黴(かび)
舐める(なめる、嘗める)、舐る(ねぶる)
夥しい(おびただしい)
悍ましい(おぞましい)
 
 
  
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