唯一の神
 
 
唯一にして全知全能の神
 
私たち信仰者は
その神の存在を信じているが
 
私たち信仰者は
その神を信じているというほどには
神を対象とすることの出来ない存在である。
 
その神は
私たち信仰者の
想像や推測の対象とはなっても
決定の対象とはならない。
 
したがって
その神について
確定した知識があるとは言えない。
 
私たちの言葉は
神の言葉に比してあまりにも不十分である。
私たちの思慮は
神の思慮に比してあまりにも不確定である。
私たちの情緒は
神の情緒に比してあまりにも不安定である。
 
神は地上の人や物ではないので
安易に机上に載せてはいけない存在である。
 
唯一かつ全知全能と
私たちの違いはそれほど大きい。
 
私たちの心は
御心に遠く及ばないのだから
私たちの実感は
神の実感に及ぶべくもない。
 
いかなる儀式的仲介をもってしても
その神を知ることは出来ない。
 
 
その神を
父と呼んでよいのは
御子なる主イエスの人格について
いささかなりとも知識を得て
さらに掛け替えのない恩恵を受けているからである。
 
物や肉体への奇跡をおこなうキリストは
神格としての力によるのであり
私たちは神格の知識を得てはいないだから
奇跡が起こるという信仰は成り立たない。
 
主イエスから慈しみを受けるゆえに
私たちの心が開き
私たちが心を震わせて
唯一御子なる主イエスを仲保者として
父と呼ぶところに信仰は成り立つ。
 
主イエスの御名によって祈るとき
神様と呼ぶ対象は
主イエスとの違いのない御方であり
そのような知識と親しみをもって
実際そのように祈っている。
 
主イエスが人格を持っておられるゆえに
その主イエスが不滅であるゆえに
主イエスの御名によって
神に祈ることが赦されている。
 
 
神より低い民であり
神を恐れるならば
神の召命についても
恐れをいだくべきである。
 
キリストの父なる神のしもべだからといって
知りもしない神格の意志を汲み取ったつもりで
宗教的優越感や党派心をもって異教や無宗教を
己の信仰より下においてはいけない。
 
それが出来るのは聖三位だけであるが
聖三位がどういう道筋で人を選ぶかも
選んだ人が例外なくキリスト者となるかどうかも知りえないのだから
異教や無宗教を下に置いて
怒ったり哀れんだりするのは優越妄想に過ぎず
恐れを知らぬ神への冒涜に等しい。
 
宗教的優越妄想は
神聖を決めつけるカルトや偽善者の持ち物である。
 
 
私たちは
感性によって受け取り
知性によって思考し判断し実行するが
その結果は信仰者にとって神への捧げものであり
決して優越ではなく
反省と悔い改めによって
私たち自身の成長を神に祈り願うためである。
 
 
聖書は
言語や訳は違っても
言葉としてはいつも同じことが書いてあり
時に応じて別の言葉で語ってくれるわけではない。
 
だから目に見えない導きを期待して
時に応じ心を動かして
新しい意味を見出してゆくのは私たちである。
 
私たち信仰者は
人間として
嘆きのうちに受け取ることがあり
涙のうちに告白することがあり
悲しみのうちに悔い改めることがあり
温もりのうちに帰ることがあり
 
ゆえに
地上で無となる時まで
喜びのうちに三体を失って
拠りどころである三位の無窮のふところへ帰るまで
キリストの想いとキリストへの想いを
不十分で不確定で不安定な存在のよすがとして
キリストの父なる神のもとで
与えられ捧げる双方向の命を生きるのである。
 
 
(2019年01月21日アップ、同日一部修正)
 
 
  
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