信仰告白
 
 
キリストの言葉に
慈しみを感じ取り感動して
キリストに共感したから
キリストを忘れられなくなり
その救いを信じて
キリスト者は生まれます。
 
キリストの言葉を
超常の謎解きワードとして
受け取ったからではありません。
 
信仰告白は
清明なる意識において
神から与えられたところの
人間の限りある知性と感性を
そのとき尽くしてなされます。
 
決して
我を失った陶酔気分や
神に捕らえられた脱魂状態や
聖霊が乗り移った憑依状態や
神の操り人形状態でなされるものではありません。
 
謎解きは興味~趣味です。
それ以上ではありません。
 
陶酔気分は気分だから一過性です。
それ以上ではありません。
 
脱魂状態には自分はいません。
どうして自分の信仰告白が出来るでしょう。
 
憑依状態は憑りつかれた状態です。
それで信仰告白したら別のものの信仰?です。
 
操り人形は人間ではありません。
 
悔い改めと信仰告白を
知性でも感性でもなく
神が与えるもの
と言うことの詭弁は明らかです。
 
悔い改めと信仰の機会を
神は人に与えるでしょう。
しかし
悔い改めと信仰告白という人間の行為を
神が与える恵みと言うのは、
こう言えば否定されないだろう
と企む悔い改めない偽善者の詭弁です。
 
人間の自由意志でなされない限り
悔い改めも信仰告白も成り立ちません。
 
 
今も魔術的に信仰を考えるものは少なくない。
キリスト者であっても聖書の奇跡を読んで
そういう考え方に惹かれることはあるだろう。
しかしそこに嵌ってはいけない。
 
物や肉体の奇跡が無いと結論しているわけではない。
物や肉体の奇跡は神のもので
人間の手に負えないと言っている。
人間の知性でも感性でも
その奇跡の仕組みを明らかにすることは出来ない。
物や肉体の奇跡は神に任せられるべきことである。
 
物や肉体の奇跡を分かるという人間がいたら
趣味の可能性を超常への思い込みで決めつけている。
 
カルトには今も
聖書を読み解いて超常が分かると主張する者がいる。
その解釈が自分の拙い知識と思考によるところの
辻褄合わせに過ぎないことを理解していないからだ。
 
キリスト教や聖書への興味で何を考えても
考えることは人間の自由だが
それと信仰を同一視してはいけない。
 
信仰は興味で生まれるのではない。
信仰は必要から生まれる。
 
 
どうしようもなく必要として
必要だから求めて
求めて与えられたものだから
人間は自分のはっきりした自由意志で
信仰を告白するのである。
 
偽善者の詭弁に頷いてはいけない。
 
 
(2019年01月23日アップ、同日一部修正)
 
脱魂状態(だっこんじょうたい)
憑依(ひょうい)
憑りつかれる(とりつかれる)
嵌る(はまる)
 
 
  
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