「底知れぬ闇」コメント欄+
   
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20056419.html
   一部タイムスタンプ省略
 
 
私は両方で良いように思うのですが?
というのは、宗教は科学で間違いが正されるし、科学は宗教で狙いが定まる。
これで言えば、
サタンも辛い厳しい仕事で人間のトラウマリセットの仕事をしていると気づけましたよ。
2019/1/22(火) 午後 0:12 [ jonah ] 返信する
 
 
>宗教は科学で間違いが正されるし
 
宗教を科学で扱うことは出来ないと思います。サタンに同情するのは勘違いだと思います。聖書には、サタンをそのように描いてはいないと思いますけど。
2019/1/22(火) 午後 3:59 st5402jp 返信する
 
 
宗教に科学の視点がなければ、人は騙されてばかりとなるのではありませんか?
 世間はみんな両ばさみで秩序が維持されていますよ。
これは作用と反作用。遠心力と向心力で地球も月も回っていることでご理解ください。
それにサタンは、無意味に生きる人々をトラウマリセットするために辛く厳しい仕事をしています。そうでなければアジアの人は皆殺しとなる。神はない、死後はないと言う人も、子どもが学校で進級しているように輪廻転生していると見れば良い。
 
そうでなければ神様の人づくりはこんな歩留まりが悪い仕事をしているのか?と、サタンを助けることになる。日本で輪廻転生を拒否すれば伝道にならない。この世界はサタンとみ使いの両ばさみ、愛と憎しみの両ばさみ、暑さ寒さの両ばさみ、戦争と平和では和戦二段構えの両ばさみ、資本主義と共産主義の両ばさみ、みんなみんなこの両ばさみのシステムがあると見れば神の深淵な愛の働きが見えます。神の愛は皆殺しキリスト教の無知な見方では思考停止してしまうと思いましたが、いかがですか?反論しても拒否ですか?
2019/1/22(火) 午後 8:02 [ jonah ] 返信する
 
 
サタンはルカ伝福音書4章5節~8節に書かれていますが、これはアダムとエバがエデンの園から追放された時から彼が神を拒否するこの世を委ねられていると見るのは、いかがですか?キリスト教徒は争いばかりして神の悪口を世に言いふらせてはならないと思っているのです。
それに、
 「愛する者よ、自ら復讐するな。神の怒りに任せまつれ。録して『主、言ひたまふ。復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」(ロマ書12章19節)
とありです。
2019/1/22(火) 午後 8:03 [ Thomas ] 返信する
 
 
> jonahさん
>宗教に科学の視点がなければ、人は騙されてばかりとなるのではありませんか?
 
宗教を科学で扱えると思えば、心の問題など、論理よりも、共感が必要なことがなおざりになります。理屈で受け容れ、心が伴わないことこそ、騙されている状態です。教条主義などがそうです。
 信仰を論理で解明することは出来ません。しかし、信仰者が、科学的論理的な思考を持つことは、信仰に適うことです。心を疎かにしなければ。
 
>作用と反作用。遠心力と向心力
 
信仰は、このような同座標の力で動いているのではありません、というか、どういう力で働いているかは、神にしか分からないことです。
 
私たちは、人間の知恵と心しか持っていません。科学だと騙されないでしょうか。いえ、理屈だけになると、理屈に頷いてそれを信仰と思う人のほうが、騙されているのです。
 
>サタンは、無意味に生きる人々をトラウマリセットするために辛く厳しい仕事をしています。
 
聖書の示す見解とは違うと思います。また同じことを書いておられますが、サタンは、トラウマをメイクするためにも動いているでしょう。聖書の目的と心を読むべきです。
 
>神様の人づくりはこんな歩留まりが悪い仕事をしているのか?と、サタンを助けることになる。
 
歩留まりが悪いとは、効率が悪いということでしょうか。それは、救いにしても、何事にしても、この地上だけが全てとした場合の見解だと思いますが、聖書では、神は超常でありますから、この地上だけと決めつけてはいけないと思います。私たち人間には、分からない、神の秘密があると思います。分からないことは、分からないまま、キリストの慈しみにつながっている、それがキリスト者です。
 
>愛と憎しみの両ばさみ
 
両ばさみは、人の常、と考えるべきでしょう。何か考え方を変えて、両ばさみでなくなるとは思えません。分からないことは、神に任せるしかありません。分かったつもりになることのほうが怖いと思います。
 
>神の愛は皆殺しキリスト教の無知な見方では思考停止してしまう
 
仰っていることがよく分かりませんが、
皆殺しするのは人です。人が人を皆殺しにしかねない世の中なのです。
神なら、こうはならないはずという思い込みは、神を決めつける人の傲慢です。
 
無恥な見方、思考停止、などと言ってしまうのは、自分は分かっているという思い上がりが言わせることです。
 
私について言えば、私は、無知で、無恥で、思考停止することもあるでしょう。しかし、自分を分かっている完全と思うよりは、人間らしいと思っていますし、信仰者としても、神の前に敬虔でありたいなら、キリストが施した心を忘れてはいけないと思っています。キリストは、その人間の不完全を身に負われたのですから、私は、そのことに共感、共鳴したいです。
2019/1/22(火) 午後 11:55 st5402jp 返信する
 
 
> Thomasさん
>アダムとエバがエデンの園から追放された時から彼が神を拒否するこの世を委ねられている
 
アダムとエバの時代からというのは、実感は出来ないことです。しかし、主イエスは、救世主、そして個人的には救い主、そして神格を持っていることからは、否定はできないのでしょう。
 
しかし、遠い昔からの超常の神格のストーリーや辻褄を思うより、キリスト者が考えるべきは、今の時代と、個人の今において、キリストの言葉を受け取ることだと思います。そして、私たち信仰者でさえ、ときに、自説に凝り固まり、神を拒否していることを忘れず、折に触れて、悔い改めの祈りを通じて、修正し、成長することが大事だろうと思って、記事を書いてきました。
2019/1/22(火) 午後 11:56 st5402jp 返信する
 
このコメント欄は、記事にしようと思っています。HNを秘密にしたい場合は、その旨、コメントください。
2019/1/23(水) 午前 0:00 st5402jp 返信する
 
 
 「信仰告白」コメント欄
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20057778.html
 一部タイムスタンプ省略。
 
 
よくできました。〇
でも、その折角の信仰告白が、御用神学者らが集まって作った〇〇信条や〇〇信仰告白では、人からはきべんだと言われても「違う」と言えない。本当の信仰告白は、聖書の「と録されたり」でなければならないなと思いました。というのは、多くの信仰告白の類では、三位一体の神を信じるなど、神を名無しのごんべいにする偶像信仰にしてしまうからだ。なぜなら、神は三位一体ではなく、其処は父なる神エホバ、救い主神の子イエス・キリスト、聖霊を与えられて神のこどもとされた信徒の三つは一つだと言うのが正しいからです。これは一体と言うより一つが真実なのだ。それに神の子どもは空の星や海辺の砂のように数限りなく存在しても何ら差し支えないでしょう。
これで、
 「それ神は唯一なり、神と人との中保(なかだち)も唯一にして人なる(人となられたという意)キリスト・イエスこれなり」
が何の矛盾もなく確定できるからだ。
 契約主の署名がない三位一体の神の契約書面は、たとえ聖書が契約書だと印刷されても契約主のサインがないためオフィシャルには無効にされてしまうのだ。
2019/1/23(水) 午前 3:28 [ jonah ] 返信する
 
 
> jonahさん

 神の子どもは空の星や海辺の砂のように数限りなく存在しても何ら差し支えないでしょう

 
 信徒は、神とは違います。それは、わが身と心を見れば明らかです。
 
 >
 契約主の署名がない三位一体の神の契約書面は、たとえ聖書が契約書だと印刷されても契約主のサインがないためオフィシャルには無効にされてしまうのだ

 
 信仰に、署名とかオフィシャルとか印刷とか、分かりません。
 
 契約が有効というのは、信じている者にとって信じているということです。地上で、神の契約が普遍的に有効であることを示す理論的手段は、人にはないと思います。個別には、それぞれの信徒が証してゆくことでしょう。
2019/1/23(水) 午前 5:51 st5402jp 返信する
 

神は三位一体ではなく、其処は父なる神エホバ、救い主神の子イエス・キリスト、聖霊を与えられて神のこどもとされた信徒の三つは一つだと言うのが正しいからです。これは一体と言うより一つが真実なのだ。

 
あとで、読み返してみて驚いたのですが、やはり信徒を三位に加えるというのは同意できません。
 
聖霊を与えられて・・といえば、オレもオレも、という人がいっぱい現れるでしょう。聖霊体験については、そうなっているようです。聖霊体験が普通に語られているようですが、私は、大方、自己暗示による陶酔気分だと思います。そういう人が、人の目を覚ましてくれるようなことを言っているとは思えないからです。
 
そういう人たちは、神との合一を主張していることも多いようです。神と一体になる、という主張を聞いたことがあります。そのように、超常の全能者と一つになる、という主張は、人間が、神よりも下である人間の分際を忘れることにつながります。
 
そうなると、完成してもいないのに、神の国にいるような陶酔気分で書いた讃美言葉が並ぶことになり、肝心の、罪、悔い改め、祈り、といった信仰の芯になるものが疎かになるでしょう。
 
人間は、地上にいる間、神聖にはなりませんし、そうでない自分を自覚するために、上に書いたような、われとわが身を見ることが必要なのに、それをしなくなり、自分のイメージの中の神聖ばかりを思い描いて、思い込んで、讃えるようになるのです。
 
この地上で、神聖との合一を目指したり、神聖と一つだと主張する向きは、神の秘密である神秘を自分に当てはめるために、人間を見なくなるという大きな危険をもたらすことになるでしょう。そのことが、人格の鈍麻や破壊をもたらすことを危惧して、私は書いてきました。
 
神を信仰することは、全能の神と人間の違いを深く理解することです。でないと、罪の赦しや、敬虔や、告白、悔い改め、神の愛、キリストの愛、などの一番大事なことから、大きく外れることになるでしょう。
2019/1/24(木) 午前 0:28st5402jp返信する
 
ここも加えて記事にします。
2019/1/24(木) 午前 0:33st5402jp返信する
 
 
(2019年01月25日アップ、同日一部修正)
 
 
  
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