誘惑と節操
 
 
シャロームは、自分で書いたものかどうかは分かりませんが、
「神の道と人の道」
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871092.html
という記事を載せています。
 
中身は、福音書の後半をなぞったような話で、恐らく、キリスト者は否定しないような内容になっています。その序文のような位置づけでシャロームは次のように書いています。
 

私たちもイエスさまが私たちの救い主であり、人生の主なる神であることを
洗礼を受け、信仰告白をしてから祖の歩みが始まるのです。
その道がどのような道であるかを知ることはとても大切です。

 
今回の上の記事に対するシャローム批判は、次のことで十分なのです。
 
シャロームは、神が与えた道を歩んでいません。
 
シャロームにとって、キリストが救いであり、主なる神であるなら、なぜ、シャロームは、今まで仕出かしてきた罪と偽善を認めて、悔い改めようとしないのでしょう。
 
なぜ、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、それを間違っていたと訂正することなく、最近は、悔い改めは必要だが、神が与えるものだ、と言ったのでしょう。
 
悔い改めは、人間がするものなのですが、なぜ、神が与えて行わせるような言い方をしたのでしょう。
 
それは、シャロームが、悔い改めないことを、姑息に正当化する言い逃れだからなのです。
つまり、この記事は、全く弁明にはならないということです。
 
シャロームは、キリスト信仰に反しているのに、キリスト信仰を説こうとしています。
シャロームは、また、白々しい嘘を吐いたのです。
 
 
私が、批判の対象としてきたシャロームは信仰の源として、キリストの愛による体験ではなく、超常の奇跡が守ってくれたという人間離れと現実離れの体験を唱えています。
 
超常への思い込みが源であるために、人間性をゴミのように捨てる習性が身についたのでしょう。そのことは、自らを、好ましい人間から、人間なら耐えられないはずの超常の存在に変えてしまいます。
 
そこで、満足してしまったために、人間性を捨て、また、それ以上を学ぼうとせず、一切、何も学ぶ必要もなく、聞く必要もなく、成長する必要もなく、変える必要もないという不感不応の固定した境地にしてしまいました。
 
そのために、人間としての常識的判断も出来なくなり、普通なら奇跡に依存するなど幼稚だ、ということが分からず、普通なら我が身を見れば直ぐに罪がないなどとは決して言えない、ということが分からず、神?の名によって、人の言うことを無視することが信仰だという絶対自己中心に陥っているのです。
 
信仰が、神という超常の全能者との関係であるために、キリスト教からは、様々な、魔法のような、謎ときのような、非現実妄想のような、カルト的信仰~思想が生まれてきます。
 
その中でも、最も短絡度が酷く、かつ、幼稚で、同時に、思慮と情緒を捨ててしまうという危険度の高いのが、シャロームのご利益奇跡しがみつき信仰なのです。ここまで個人的な信仰が来てしまうのは、珍しいと思います。
 
信仰は、神という超常の全能者との関係であるゆえにこそ、信仰者は慎重でなければいけないと思います。迂闊に、感謝と讃美をもって、憧れを自らの成り上がりにして、自らの超常の使いであるかのように見なすようにならないために弁えておくべきことがあるのです。
 
神の意志と行為を決めつけてはいけない、
神の立場で物を言ってはいけない、
自らに無謬の絶対を持ってはいけない、
神聖との直接交流を求めて得られると思ってはいけない、
神に直接出会うことは人にとって一瞬で燃え尽きてしまうほどの脅威であることを忘れてはいけない、・・等々、弁えるべきことがあります。それが、神を恐れる姿勢であります。
 
そういうことを微塵も考えず、人間としての身の程を弁えなくなったシャロームのような者が、えてして、上に挙げたすべての違反を犯して、超常を自らに当てはめるがゆえに、大仰に讃美し、豪語し、訂正不能になってしまうのです。
 
訂正不能になった人間は、もはや、人間の節操も失って、人間性も失って、自分がしでかしていることの罪悪を自覚せず、思慮深く考えることが出来ず、深い情感を感じることが出来ず、まるで、本能のように、無作法に乱暴に吠えることを繰り返します。もはや、神の裁きによって終わる以外になく、彼に対しては、人間は、すべがなくなるでしょう。
 
一種の狂気ですが、この狂気は、精神医学が言うところの精神病とは違います。効く薬がありません。知能とも関係ないようです。また、サイコパスなどの人格障害に似ていますが、奇妙な宗教体験と奇跡だという見なしは、精神病理だけではなく、人間の深いところにある闇の欲望の成就欲求が、固定した安穏を欲しがっているということかもしれません。これこそが誘惑なのでしょう。
 
そして、その結果は、人間らしい心に対しては例外なく破壊的なのです。宗教そのものが怖いというのではなく、宗教を人間が扱うことが、慎重さを失わせ、怖さを生み出しているのです。
 
そのようなカルト的妄想宗教は、悪魔のように、丁寧語と聖書語で、もっともらしく見せかけて、誘惑してきます。見せかけだけが巧みで、それだけを身につけてきた生業だからです。
 
宗教が怖いからといって、怖いからやめるというわけにはいきません。宗教そして信仰の幸いをすでに受け取っているからであり、受け取った人々にとっては、救いとなる福音を伝道する務めがあるからです。
 
慎重さは、そう言うだけではなく、弁えとか節操とかいうべきものとして、まだ誘惑に乗っていない人に、誘惑から立ち直った人に、暴走を止めて、信仰を守る役割を果たしてくれることを期待するしかありません。そういうことを考えて、私も記事を書いてきました。
 
ですから、キリストに救われるべき心貧しい人々が、カルトの誘惑に惑わされてキリストの救いから漏れるのを、少しでも減らすために、ミイラ取りがミイラにならないように、シャロームのような偽善者の影響を誰も受けないように、狂気の言説が広まることのないように、批判する気のある人々による不断の批判が必要になるのです。
 
 
(2019年01月25日アップ)
 
迂闊(うかつ)
無謬(むびゅう)
生業(なりわい)
 
 
  
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