沈黙と平安
 
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41460514.html
   コメント欄より。タイムスタンプ一部省略。一部編集。
 
 
(シャローム)
宮沢賢治はたしかキリスト教の影響を深くうけていたと聞いたことがあり検索してみました。
 
 「宮沢賢治は子供のころ、教会に通って牧師からキリスト教のことを色々教えてもらっていました。 また最も良き理解 ... と言わせていることから、賢治としてはキリスト教をも内包した法華経の究極版のようなものを想定していたように思われます。」と書いてありました。」
 
 聖書にも人の賢さと神の愚かさについて書いてありますが、通じるものがありますね。(コリント第一の手紙1床18節~2章)
おそらく旧約聖書の箴言にもたくさんあるでしょうね。
 
2019/1/21(月) 午後 0:53[ shalom ]返信する
 
> 自由さん
 
「でも人に貸したら返ってこなくなったというパターンで、今は手元にないです(笑)。」
 
 私にも覚えがありますが・・・どっちもですが、トホホ
 フランスには本と傘とお金は貸すなということわざがあると聞きましたが、至言です。
 
2019/1/21(月) 午後 4:56[ shalom ]返信する
 
 
(自由さん)
>2019/1/21(月) 午後 0:53さん
 
見当違いかもしれないけど、自分としては、「どんぐりと山猫」に、キリスト教っぽさを感じました。
どんぐりたちが、どれが一番偉いか争ってるときに、主人公が言った言葉とか…。
 
・どんぐりと山猫 宮澤賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43752_17657.html
 
ちなみに、金平正氏の解説では、「どんぐりと山猫」と「雨ニモマケズ」の関係性をうんぬんしてた。
 
・〔雨ニモマケズ〕宮澤賢治
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
 
2019/1/21(月) 午後 7:16[ 自由 ]返信する
 
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち
欲はなく
決して怒らず
 いつも静かに笑っている
一日に 玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆることを
自分を勘定に入れずに よく見聞きし 分かり
 そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて
東に病気の子どもあれば 行って 看病してやり
西に疲れた母あれば 行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って 怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や 訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
 みんなにデクノボーと呼ばれ
 ほめられもせず 苦にもされず
 そういうものに わたしはなりたい
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/karuta/amenimomakezu.htm
 
2019/1/21(月) 午後 7:17[ 自由 ]返信する
 
「雨にも負けず」を読み返してみると、遠藤周作の「イエスの生涯」に描かれたイエス像と似たところはあるかも…。
 
 遠藤周作のイエス像は、特に何かできるわけではなく、無力な男にすぎないけれども、とにかく優しい心を持っていて、虐げられ苦しめられている人に寄り添い、支え、決して見捨てない人という感じだったので。
2019/1/21(月) 午後 7:26[ 自由 ]返信する
 
 
(シャローム)
> 自由さん おはようございます
「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」だけで
 どんぐりと山猫 はまだ読んでいませんが、読んでみましょう。
 
 「遠藤周作のイエス像は、特に何かできるわけではなく、無力な男にすぎないけれども、とにかく優しい心を持っていて、」
 
 遠藤周作の“おばかさん”にはそんなイエス像を感じますね。
イエスは“あなたがたはなにを求め、なにをしているかわからないでいる”と言っています。本当にその通りだと思います。
イエスはなにも求め、なにをしているかわかっていた“おばかさん”だと思います。イエスほどの“おばかさん”は人類史上いないと思います。(笑)
2019/1/22(火) 午前 9:24[ shalom ]返信する
 
> 自由さん
 
「どんぐりと山猫」読みました。
 
 人とくらべているうちは人はどうしてもドングリの背比べをやめることは出来ず、争いがやむことはないのだということでしょうか。ほんとうのえらさは愚かさにあることを知るまではということでしょうか。
 「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」と同じメッセージですね。
 
イエスの十字架の姿のうちに神の愚かさに出会うとたしかに人はだれでも沈黙と平安に導入れられるのではないかなと思われます。
2019/1/22(火) 午後 5:10[ shalom ]返信する
 
2019/1/22(火) 午前 9:24
 
「イエスはなにも求め、」は「イエスはなにを」の間違いですね。
 
2019/1/22(火) 午後 5:52[ shalom ]返信する
 
 
(自由さん)
>2019/1/22(火) 午前 9:24さん
 
遠藤周作の「おばかさん」には、俄然、興味が出てきました。
タイトルは知ってたけど、まだ読んでなかったので。
 
2019/1/23(水) 午後 10:07[ 自由 ]返信する
 
 
ここから私の意見を述べます。書き込みますが、シャロームに妙に味方している人によって、承認されない可能性もあるので、記事として書くことにします。
 

(シャロームの発言引用+私のコメント)

 聖書にも人の賢さと神の愚かさについて書いてありますが、通じるものがありますね。(コリント第一の手紙1床18節~2章)

 
人の賢さと神の愚かさ、ということを、ポンと言っておきながら、解説しないシャロームです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)1:25
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 (1コリント1:25、新約聖書)
 
これを言わないと通じないでしょう。
人がいかに知識に優れていても神には及ばないということです。
 
何故、また、悔いもせず、改めもせず、書き込むのですか。
 
シャロームは、また、ほとぼりが冷めたと思ったのか、ここにコメントを書いています。自由さんの考え方が、自分に近いものだから、触手を伸ばしているのでしょうか、宿主を求めているのでしょうか。それとも、他に相手をしてくれる人がいないのでしょうか。私は、誰も、悔い改めない反キリストの偽善者に関わってはいけないと思っています。
 
シャロームが、反省も悔い改めもせずに、悔い改めなくてもいいとまで言って、訂正不能のまま、書き込んでいるというのは、キリスト者ではなく、反キリストなのに、キリストを語ることになるのです。これは、キリストを貶める行為を続けるということです。
 
>フランスには本と傘とお金は貸すなということわざがあると聞きましたが、至言です。
 
自由さんが、このコメント欄という場を、シャロームに貸すということは、シャロームは好きなように書くでしょうから、自由さんは反キリスト活動に手を貸すということです。本格的になってきました。
 

 遠藤周作の“おばかさん”にはそんなイエス像を感じますね。
イエスは“あなたがたはなにを求め、なにをしているかわからないでいる”と言っています。本当にその通りだと思います。
イエスはなにも求め、なにをしているかわかっていた“おばかさん”だと思います。イエスほどの“おばかさん”は人類史上いないと思います。(笑)

>「イエスはなにも求め、」は「イエスはなにを」の間違いですね。
 
キリストを讃えながら、キリストを裏切り続けているのがシャロームです。何をしているか分からないと、何をしているか分かっていたと、人に過ぎないシャローム自身は、いったい、どちらだと言いたいのでしょう。誉めればいい、という安易さで、人に分からないことを分かっているキリストを、自分は分かっているという詭弁を、また言うつもりなのでしょうか。
 
シャロームは、いちばん大事なことを全く分かろうとしない偽善者です。知っているかのようにキリストや聖書についてコメントできる立場にはありません。
 

人とくらべているうちは人はどうしてもドングリの背比べをやめることは出来ず、争いがやむことはないのだということでしょうか。ほんとうのえらさは愚かさにあることを知るまではということでしょうか。

 
人と比べないことを、シャロームは、自らの身勝手な「人それぞれ」自己中心の解釈よりなる妄想的無罪信仰の正当化に利用しています。人間として、正しさも、敬虔も、罪の自覚も必要とせず、真実の告白も、悔い改めもしないで、シャロームの詭弁は続いています。
 
このように、不感不応の絶対性に嵌ってしまうと、感じることも、考えることも、正常ではなくなり、同じことの堂々巡りになり、アウトプットをしてもインプットをしなくなる弊害は人格破壊ですから、異様な固定に満悦して、生ぬるい培地のようなブログで、自由を認められて、人それぞれ勝手の境地で、世辞の空虚さを交わして笑っている気色の悪さを、二人で舐め続けるつもりなのでしょうか。
 

イエスの十字架の姿のうちに神の愚かさに出会うとたしかに人はだれでも沈黙と平安に導入れられるのではないかなと思われます。

 
説明なしに、神の愚かさに出会うと沈黙と平安に導かれる、と言っています。神の愚かさ、沈黙、そして平安?、信仰の話として、支離滅裂と言ってよいでしょう。自分の愚かさしか存在しない沈黙の安穏に浸かって笑っているのは、シャローム自身であります。
 
それを、詭弁で繕おうとしていますが、言葉の使い方も説明も、無思慮と無感動のために、ひどいものになっています。妄想教理の自分信仰は、これほど、おかしなことを、平気で言うようになるのです。
 
沈黙と平安を同列に書いて、それを神の愚かさに出会ったから、と言っている。つまり、神を信じてなどいないシャロームは、信じているふりをして、何も言わないことと、平安を同一視しているのです。ならば、シャロームは、何も言わず、何も書かず、黙っていてほしいものです。
 
シャロームの、この信仰?話を肯定すれば、シャロームと同じように、沈黙を平安と言って苦言を遮断しながら、自分は言いたいことを言い続ける、という矛盾した単方向の唾吐き行為に生きることになります。それは、醜いだけで、御心に適う人間の欠片もありません。もはや、人間でもありません。
 
 
(シャロームです)
> 自由さん
 
 きっとがっさんも会うのを楽しみにしていますよ!
がっさんによろしくです。
2019/1/25(金) 午後 3:08 [ shalom ] 返信する
 
 
(私です) 
シャロームの、ここで挨拶は、不感不応、しかし、弁明と反論は一度も出来たことが無い。
 
クリスチャンなら、悔い改めないことを指摘されているのだから、悔い改めていることを告げるか、誤りを認めるか、いずれにしても、うれしそうに挨拶などしている場合ではないことが分かるはずなのです。
 
だいたい、クリスチャンなら、悔い改めなくても罪が赦されるなんてことを、クリスチャンであるあいだ、言うことはないのです。
 
通用すると思っているのでしょうか、書くたびに、きれいごと並べてごまかそうとするか、詭弁になるか、いずれも、嘘です。
 
2019/1/25(金) 午後 11:07 st5402jp 返信する
 
 
シャロームが、同じところを記事にしています。
『注文の多い料理店』 (宮沢賢治著、ポプラ社)
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871826.html
シャロームは、自分に都合の悪いところは全部隠しています。
 

 
(2019年01月26日アップ、同日一部修正)
 
貶める(おとしめる)
 
 
  
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