婉曲的偽善
 
   政治と宗教の話題はタブー?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28871751.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回、シャロームは、テニスの錦織選手が記者から敬遠されている話題(省略)を持ち出して、政治と宗教の話題はタブーということを批判しているつもりのようです。また、瀬戸内寂聴さんは、そのタブーにもかかわらず発言していると称賛しています。
 
何が言いたいのでしょう。自分が批判され、政治と宗教に話しにくくなっている、つまり、自分も政治と宗教の言論をタブーにされているのはよくないと遠回しに言いたいのでしょうか。
 
私が批判しているのは、政治と宗教についてシャロームが語ったからではなく、シャロームの政治の話が、自分を正義の高みにおいて、誰の参考にもならないような、日本の政治と社会と歴史を一方的に活用地にボロクソに言うところの、私が名付けたシャロムのボロクソ節だからです。
 
また宗教については、毎度書きますが、シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言いました。キリスト教と聖書の、どこにもそんなこと書いてありません。真っ向からの背教です。キリスト者なら決して言わないことです。シャロームは、キリスト教を馬鹿にしているとしか思えません。
 
それをごまかすために、最近、悔い改めは神が与える、などと言い訳しました。誰の悔い改めなのでしょう、人間の悔い改めです。シャロームの悔い改めです。神が自動的に悔い改めさせるかのように言うのは、明らかな詭弁です。
 
および、平気で嘘を吐くこと、さらに、この記事もそうですが、まるで、悪い政治家のすり込みのように、詭弁を弄したり、婉曲的に自己正当化へ持っていったりすることを批判しています。どちらもキリスト者として、あからさまに背教の偽善だからです。
 
シャロームが何を書こうと自由です。私に強制力はありません。しかしながら、上の2つの理由により、また、シャロームが悔い改める気が全くない無視と不感不応であることにより、書けば、私が批判するということは必然であり、私が生きている限り、ずっと続くということです。
 
シャロームは、言いたいことは一方的に言うが、文句は言わせない、という環境を欲しがっているようです。とんでもないことです。政治についても宗教についても、真実への希求が大きな源泉でありますから、その真実を嫌い、自分勝手を通そうという欲望に対しては、永遠に抗うしかないのであります。
 
シャロームは、今回、スポーツと評論を持ち出して、婉曲的に、自分は正義の言論者なのに迫害されていると言いたいのでしょうか。この卑怯さを、決して見逃してはならないと思います。それにしても、シャロームという男は、反省というものを全くしない人だなと思います。
 
>《shalomのコメント 》
 

既に錦織圭は連戦激戦の疲れもあり、大きな身体的に優位だと考えられるジョコビッチに途中棄権し、15連敗に終わりました。
しかし、健闘をたたえたいと思います。
全豪オープンテニスもいよいよ男女とも決勝戦を残すのみとなりました。
大坂なおみは26日ついに決勝戦に臨みます。健闘を祈ります。

 
錦織選手は残念でしたが、大坂なおみ選手は優勝しました。(シャロームは、なぜか、記事投稿よりも早い時刻表記で優勝の記事を追加したようです。どういう見栄なのでしょう。)
 
シャロームは、こういう話題さえも、汚い自らの正当化に利用してきます。
 

ここに掲載した記事は決して錦織圭を貶めるためではなく、
だれでも自由に生きることができますが、
また人ぞれぞれにどのように生きていくかの選択を迫られることもあります。
その選択も自由であるべきですが、
時には状況や事柄によって自分の自由な意志により自制したり、
時には抑圧したりしながらの選択と意思決定をすることがあります。

 
人それぞれに生きることについて、選択の自由を言いたいようです。それを、自制、抑圧によって、妨げられるかのごとく書いています。詭弁です。
 
人それぞれに公共の福祉に反しない限りにおいて自由に生きてよいのです。ただし、加えて、キリスト者として生きるなら、キリスト信仰を持っていなくては、おかしいわけです。ですから、キリスト信仰に真っ向から反することをしながら、嘘を吐いて、キリスト者に見せかけることが批判されるのは当然のことです。
 

私は若かりし1970年ごろ、ある講習会に出席しました。「話し方教室」でした。
講師は皆さんよくご存じの瀬戸内晴美さんでした。
その内容はよく記憶していませんが、一つだけはっきり覚えていることがあります。
それは会話話題にはタブー(禁忌)があるということでした。
話題は“木戸に立てかけせし衣食住?”という気候、読書?・・などの
頭文字を連ねた言葉と、タブーは政治と宗教であると言われたことでした。

 
自分が話せなくなったことを、瀬戸内寂聴さんの話を持ち出して、政治と宗教がタブーになっていて困る、とでも言うのでしょうか。迫害されているとでも言いたいのでしょうか。福音伝道を、狂った言説で惑わそうとするシャロームこそが迫害者です。
 

今は瀬戸内晴美さんは瀬戸内寂聴という尼僧になられました。
当時私はある印刷会社の会計事務の仕事をしていました。
今、寂聴さんは尼僧して宗教、政治に積極的に発言し、高齢にもかかわらず、
活発な活動をしておられます。
私は職場を転々としながら、考えてみたことも、
予想もしなかったキリスト教会のボクサーを30年間し、今は引退し、
リングから降りて、このようなブロガーとして福音のささやかな発信をし、
その中で政治にも大きな関心を抱いています。

 
寂聴さんは政治も宗教も話しているし、自分も政治に関心を持っているとシャロームは言っています。いつから、シャロームは、寂聴さんのような評論が出来るようになったのでしょう。私が見る限り、ボロクソ節の政治批判は悪口でしかなく、紛らわしく、読んでから、うんざりするものですかないです。だから、そのようなものだと批判するのは当然なのです。
 
偽善者というのは、何でも人のせいにして、自らを省みることをしません。自分は人の言うことを受け取らずに、勝手に言いたいことだけ言っているようなものを、言論とは呼びませんし、それを、人のせいにして、発言を妨害される感を婉曲的に表そうとするシャロームは、気色悪いくらい卑怯な偽善者であります。ささやかな発信とは聞いてあきれる。キリスト者なら決してできない厚顔無恥の発信だと思います。
 
こういうのを見ると、さらに批判していかなければならない使命を感じます。実際、キリスト者の中には、シャロームに対して、逆らうことが出来ず、結局、シャロームに感謝し、シャロームを批判している私にも感謝のコメントを書く、という苦しい対応を強いられている人がいます。シャロームは災いは、このように、人の良心を貪る性質のものです。
 

50年前の「話し方教室」の講師とひとりの受講者でしたが、
必ずしも、自由気ままではなく、自分の内なる不安や、怖れや、
劣等感などにおびえたりしながら、確かなものを求めずはおられない、
自分の弱さに振り回されたりしながら、また食べるための生活に必要のために、
連れ合いに助けられ家族、特に子供たち必要も考える50年間の歩みで、
昨年50周年となりました。

 
シャロームが、劣等感を持っているなら、いつまでも反信仰の自説を言い張ったり、あちこちのブログに挨拶と讃美コメントを書いてすり寄ったりはしないでしょう。また、白々しい嘘を吐いています。シャロームの白々しい挨拶と讃美は、支える実質が何もなく誉めまくるだけなので、本当に気持ち悪いです。
 
恐らく逆に訂正不能の宗教的優越妄想によって、お世辞にも求めているとは言えず、確かなものを得ている慢心と神を恐れない傲慢によって教えてあげる姿勢で妄想説教を書いてきたのです。牧師をしていた時代のことが空恐ろしくなります。また一方、本当は教会を辞めさせられたのではないかという疑いさえいだきます。底知れぬ闇、そこにシャロームの正体があります。
 

しかし、そんな私の人生をいつも、私の目には見えないけれども、
下から支え、また導いておられた確かな方がおられることを伝えたいと思いながら、
ブログというリングに立ち続けています。

 
神から導かれているのなら、悔い改めるはずです。悔い改めないと指摘されたら、先ず、驚いて、いや悔い改めています、というはずです。キリスト者なら、自分が悔い改めるのに、悔い改めは神から与えられる、などと詭弁を弄することはないし、また、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って訂正しない、などということはないのです。
 
ゆえに、嘘だけが明らかになったシャロームは、神からの導きに背いています、というより、神の導きなど、何も気にしていないと思います。シャロームは、宗教を、全く甘く見ている、あるいは、バカにして、あざ笑いながら、利用しているとしか思えません。
 
シャロームのような嘘吐きそして偽善者そしてカルト信仰者は、伝えれば伝えるほど人間を駄目にするのだから、伝えておきながら知らないよとばかり嘯いて責任を取ろうとしないのだから、いちばん福音伝道ブログのリングに上がってはいけない人です。
 

私はふと思うのですが、日本の政治や、経済、教育などありとあらゆる
ところ政治や宗教に対するタブーが生きていて、
ひとりの人間として生きる時、ひとりの社会人として生きる時、
必ず、避けて通れない政治や、宗教をタブーとしている為に、
政治音痴と宗教音痴、否、痴呆化が日常化していると感じていますが、
言い過ぎでしょうか。

 
シャロームは、タブー、タブー、よくない、と言いたいようですが、シンプルな言い方をすれば、嘘と悪と偽善は当たり前にタブーなのです。シャロームに弁明の余地はないのです。シャロームは、妄想信仰のために、政治音痴であり、宗教音痴ですが、それ以上に、政治と特に宗教を悪用する者、つまり偽善者なのです。
 
言い過ぎではなく、シャロームが、音痴~痴呆から自分を除外して、それを他者に当てるのは、まずもって滑稽なほど、真逆なのです。シャロームが使った乱暴な当てはめ方をするなら、シャロームこそ、どこまでも病識のない音痴~痴呆なのです。
 
シャロームを受け容れることは、誰にとっても、自他ともに破壊するような妄想宗教洗脳活動に加担することになるでしょう。いつまでも無駄な正当化の詭弁を弄してきます。不感不応で、かつ、罪悪感が無く、反省機能や学習機能が無いからです。
 
自分信仰が妄想的確信によって進行すると、こうなるという症例のようなものなのでしょう。日本を代表するスポーツ選手と宗教評論家をけがすのは止めろ、自分を棚に上げて日本と社会をけがすのは止めろ、と言いたい。
 
このように、シャロームは、全く病識も自覚もなしに無根拠に満悦して書いてくるので、シャロームが、婉曲的だが幼稚な自己正当化を、自分では上手に書けたつもりで、次から次に出してくるたびに、そこに表れた拙劣さと汚さを書いて、シャロームがサイコパス的な異常な人格であることの証拠を積み重ねてゆくことが、今の私の務めであろうと考えています。
 
つまり、現実検討の全くできない愚か者に対しては、キリスト教を、こういうふうに曲解すると、こんなに身勝手な酷いカルト的妄想宗教になり、こういう人間破壊が起こり、こんな酷い言動をするようになる、という実例ですから、その実際の言動の記録を積み重ねて、宗教人への戒めとして残すことになります。積み重ねても資料として残るかどうかは分かりませんが、それを務めとする者がいなければいけません。
 
私は、言い過ぎと思われることもあるでしょうが、神様の前に、できることをしているつもりですから、それで、結局、嫌われても仕方ありません。そう努めるつもりならば、神様に対しては、私は、裁きをゆだねるしかないと承知しておくことになります。
 
 
(2019年01月28日アップ、同日一部修正)

(2019年01月30日、一部修正)
 
止める(やめる)
嘯く(うそぶく)
 
 

  
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