ミイラの徘徊
 
    ★カルト体験 
   (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
   反省できなくなってしまう?)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
   コメント欄より。
 
 
批判をされて弁明が出来ないシャロームは、カルトから脱会した自由さんという人の心の隙に、つけ入ろうとしています。自由さんについては、自由を得ようとして、中庸のようなものを目指して
 
   「人は人、自分は自分」という考え方 (アドラー心理学)
    
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41442356.html
     by 自由
 
という記事に書いていますが、私は、
 
   「いびりのような当てつけ」
    
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20024186.html
 
という記事を書いて、
結局、人の言うことを気にしない~無視して真剣に考えない、という付け焼刃の処世に陥っていることを、私は指摘しました。
 
一番上のリンクは、私が十分に批判できない隙に、シャロームが、好きなように書き込んでいるようです。シャロームは、批判されると弁明も反論も成り立たないので、どこでも、受け入れてくれそうな2~3あるいはそれ以上の他者のサイトに、批判さえされなければよいと、批判者の目を盗んで、盗人のように書き込むのです。
 
そして、今回、そこに書き込んだコメントを、自分の記事にしています。大きめのフォントで、見よとばかり、乱暴にコピペしているようです。都合の良いところだけ。
 
たくさん書いたシャロームのコメントを拾ってゆきます。
 

人は死すべきもので、神の心は聖、義、愛でいつも、どこでも、どんな時も変わることのない真実であり、人の心はころころ変わりますから心というともいわれます

 
人の心が変わりやすいことを認めているなら、不感不応が致命的な結果を招くことは分かるはずですが、好きにさせろとばかり、シャロームは、同じことを言い続け、他者の意見を、自分のブログでは削除し、コメント欄を閉鎖し、何も聞かずに、世辞の挨拶で近づいては、神の啓示と聖霊が根拠だから議論の対象にならない、と言っていた自説をご披露するのです。
 

人間が有限で、相対的存在である以上、その思想も有限で、相対的であることは避けられないはずなのですが、でもそのような不確かさからくる不安を逃れるために、その思想を確かなものであると信じようとするのも人の神を求めずにはおられない弱さゆえでしょうか。

 
人間が相対的、思想も有限だと、ここでは言っていますが、自説を絶対として、訂正不能にして、その結果が、嘘と詭弁という悲惨なことになっているのがシャロームなのです。
 

イエス・キリスト信じる「霊性進化」に方向についてですが、普通私たちの進化という言葉のイメージからすると「下から上に向かうこと」と考えがちだと思うのですが、イエス・キリストを信じる道は「下へ上る道」と言えるようです。

 
人間には実感のない、わけの分からない理屈を言い出しました。これで言い得たと?
 
>それがイエス・キリストの道なのですから、
 
イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストと同じ道は歩めないことを知っています。だから、十字架の贖いと言われていることを、シャロームは知らないのでしょうか。
 
>聖書にはそのイエス・キリストの上から下へ歩まれたことを次のように記されています。
 
それで、どうして、信仰が、下から上になるのでしょう。シャロームは、上に行けると思っているのでしょうか。紛らわしい喩えを、造語のように作るのはシャロームの癖のようです。前にも、民主主義ならぬ神主主義とか、心身症ならぬ霊心症とか、ひどい造語がありました。言葉作ればいいというものではないということが分からないようです。
 

 使徒パウロの言葉です。
 「2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」と。(ピリピ3:6~8)

 
キリストが父なる神に従順であったことが、シャロームの言い分と、どう関係していると言うのでしょう。神格が人格を持って地上に来られたことを、さも分かっているふうに言わないと気が済まないのでしょうか。
 

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」とはしてへ上ることを意味しています。
それは十字架の道です。

 
「してへ上る」は「下へ上る」のタイプミスでしょうか。まだ、奇妙な自説で飾りたいようです。こういう自己顕示欲が、シャロームにしばしばみられることです。自分は、平凡ではないと言いたいのでしょうか。平凡未満だと思います。
 

12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」と。
 (新約ヨハネ12:23~25)
 「自分の命を愛する者」はそれを失い、この世で「自分の命を憎む者は」それを保って永遠の命に至るであろう。
 「自分の命を愛する者」とはこの世の下から上への道を歩む自己愛に生きるこの世を支配している道であり、それは死の道です。
 「自分の命を憎む者」とはこの世でイエス・キリストの道である上から下への歩む自己愛をイエス・キリストともに生ける神にゆだねるいのちの道です。

 
自己愛をキリストとともに神に委ねたのなら、シャロームは、なぜ、低き者としての自覚で悔い改めないのでしょう。なぜ、平気で嘘を吐くのでしょう。また、幼稚な詭弁を弄しています。
 

イエス・キリストを信じて受ける洗礼について次のように使徒パウロは記しています。
 「6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」と。
 (新約ロマ6:3~5)

 
シャロームは、前に、罪も死んだ、死体を蹴ってもびくともしない、という記事を載せていました。死に等しくなり、復活に等しくなる、ということを、概念以上に分かる人がいるでしょうか。シャロームは、いつも、このように、辻褄合わせだけをもって信仰を語ります。
 

聖書の言葉を列記しましたが、これらのことは聖書全体を貫いている事柄です。
これらの言葉は神の言葉であり、神の御心ですから、この世の常識、人の思い、考えでは理解することの困難な言葉です。

 
シャロームは、何によって理解したのでしょう。ここに、シャロームの、神の啓示と聖霊、という絶対を自己に結び付ける妄想が暗示されています。
 

しかし、神は私たちを上から下へ登るイエス・キリストが歩まれた道へと導くことによって私たちにみことばの真実を悟らせることができるのです。

 
図式的に上だの下だのと言って、これで、理解を助けたつもりのシャロームです。真実を悟ったのだそうです。シャロームの自説に、まるで実感がないのは、こういうことからでしょう。聖書全体を貫いていると豪語しているシャロームが、裏切っているのは、他でもない、その真実です。
 

イエスさまがだれでも幼な子のようにならなければ神の国に入ることができないと言われた理由です。
 言われてわからなかったのはニコデモというイスラエルの律法の教師であるニコデモでしたが、霊的な神の真理は神が導き、開いて下さいます。
 「2:4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。

 
シャロームは、神秘が大好きです。しかも、その神秘を、神が分からせてくれると言っています。このことは、つまり、シャロームが、実感のない「霊的」「真理」を与えられた、と言いたいのです。自慢虫だと思います。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
2:1
兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
2:2
なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
 (1コリント2:1-2、新約聖書)
 
パウロは、優れた言葉や知恵を用いなかったと言っています。知恵を使わないとは言っていません。確かに特別に優れた知恵は信仰には要らないのです。また、十字架につけられたキリスト以外のことは知るまい、と言っています。キリストへの想いを何よりも大事するということです。さらに
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
2:6
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
2:8
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
 (1コリント2:6-8、新約聖書)
 
ここでは、知恵で語ると言っています。その知恵は、知っていたら、キリストを十字架にはつけなかったであろうという知恵です。つまり、イエスがキリストつまり救い主だということを知る知恵なのです。決して、シャロームが大好きな、わけのわからない神秘ではないのです。
 
いちばん必要なのは、私たちにとって知恵云々ではなく、キリストの愛であり、キリストへの愛であるということです。シャロームは、そこに共感できないので、やたら言葉だけ、霊だの力だのと、実感もないのに神秘を持ってくるのです。これがシャロームの詭弁と誘惑です。どうか騙されないようにしてください。
 

信仰は私たちの思想ではなく、神の啓示と神のみことばと神の導き、助けによって与えられる事柄です。

 
シャロームは、共感というものを持てず、また、必要とも思っていないので、このように、人間は何もしなくても、啓示と導きで、与えられると言っています。言葉だけだから、しかもシャロームの利用するその言葉は、神聖に属していて、人には実感のないものだけだから、シャロームは、平気で讃美し、一方で、平気で裏切りに走るのです。こういうことをシャロームは、これからも強調してくるでしょう。騙されないようにしてください。
 

「してへ上ることを意味しています。」は「下へ上ること」です。「下へ上る」なんて変な言い回しですが、聖書にはこんな変な言い回ししないと表現しにくい言葉や文章があるようです。
それも大事なことほどですから厄介です。

 
上だの下だのと、幾何のように、決まっているかのように、分かりもしない超常の方向をいじくって、分かっているふうに見せかけて、煙に巻くシャロームの自慢に惑わされないでください。共感と学習の可能な人なら理解できるのがキリスト信仰です。シャロームには、それが無いだけなのです。
 

科学は仮説とその検証、実験から始まりますが、生ける神は作家が作品によって自己を表現するように、神は被造物とご自身の啓示の器として選ばれた民とその歴史、超自然的な神の御業、啓示によってご自身を証しされますが、神の御言葉である聖書と御言葉の真理を拓き、悟らせてくださる聖霊の導き、助けが何よりです。

 
こういうのは、みな、シャロームの自己正当化と自慢です。どれだけ、実感のない抽象語を使っているかを考えてください。ペテン師シャロームの煙幕に過ぎません。自分は特別だ、だから、分かっていると言いたいだけなのです。
 

人は知ることから信じることへ三次元の世界から三次元を超える世界に飛躍するには人にはどうしても超えられない渕があるようです。イエスさまは滅びに至る道は広く、命の至る道は狭いといわれましたが、幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。その道は人には狭い道のようです。幼な児は知の世界ではなく、信の世界に生きているといえると言えるかもしれませんね。人には広いようで狭い道だといえるでしょうね。

 
信じることは三次元なのでしょうか、シャロームが、気取っているだけではないでしょうか。
 
幼子は、信の世界に生きているでしょうか。幼子に、信心があるでしょうか。
 
これは、シャロームの、ペテン師らしい作為的な言い回しに過ぎません。
 
幼子は、私たちのような先入観もなく、シャロームのような妄想もないということです。
ここで、幼子の聖句までも利用するとは。
 
 
(2019年01月29日アップ)
 
騙し(だまし)
 
 
  
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