ミイラの徘徊(2)
 
    ★カルト体験 
   (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
   反省できなくなってしまう?)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
   コメント欄より。
 
 
神聖のことを分かりやすいと言えば信仰は厚いのでしょうか。
 

「幼児というのはイエスのこと」
 一番わかりやすく、一番いい解釈だと思います。

 
救い主が神を信じることが、分かりやすいのでしょうか。
シャロームの言うことは、いちいち疑ったほうがよさそうです。
 

が、イエスは罪なき神の御子であり、私たちは神のかたちにかたどって造られた人の子ですが、イエスが父として信じておられた神との関係と交わりを見失っているのです。その的外れの状態を罪と言います。そのために、イエスのような幼児のような信仰を信仰とすることができないのです。

 
神の子でない今のキリスト者の持つべき信仰さえ、罪を認めず悔い改めないシャロームは裏切っています。しかも、それをも悔い改めません。的外れの、さらに、的外れです。
 

イエスの主体性は父なる神に対するイエスの自由意志による信仰によって、神にゆだねられていましたが、神が食べてはならない、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木の実を食べることによって、神との自由意思による信仰をと関係を失いう、それを死というのです。その死によって私たちは自由意思によって神の御手にゆだねる信仰ではなく、

 
また、シャロームは、アダムとエバの話をしていますが、それは、昔のことではなく、今の私たちのあり方を言っているのです。私たちが、神の御手にゆだねる信仰から逸脱して、罪を犯す者なのです。
 
自分ではない罪人か悪者のせいのように語るべきではないのです。前にも同じことを言ったのですが、シャロームは、修正不能なので、同じ主張のままです。
 

善悪の基準を自らの手の内にあるとして、私たちの主体性は神に対する不信仰によって支配されて生きるものとなっているのです。

 
私たちの主体性が、不信仰に支配されているなら、信仰者は生まれません。私たちの主体性によって、不信仰と罪の自覚が生まれ、悔い改めて信仰者になるのです。シャロームは、悔い改めをする気がないために、他者を含めて、全か無の判断で、不信仰によって支配されているというのです。これも、ボロクソ節です。
 
不信仰があり、信仰があるのが、人間です。罪人であり、一方で、愛し愛されるのが人間です。人間の罪性を全か無で語ることは出来ません。その罪もあり愛もある人間が、自由意志で悔い改めて信仰者になるのです。分からないシャロームは、余計なことを言って邪魔をしないでください。キリスト教を誤解させるシャロームの言説は、とても迷惑です。
 

神は私たちの罪によって失われた神への自由意思による幼児のような信仰をイエスの十字架の死によって、本来私たちが罪の代価として自ら支払うべき代価を支払い、私たちが神による罪の贖いによって与えられる罪の赦しを信じ受け容れるとき、失われた神との関係と幼児のような信仰を回復してくださったというのが福音なのです。

 
罪によって信仰が失われたのでしょうか。罪があるから信仰が必要なのです。変な言い回しをしないでください。それにしても、福音から、温もりと潤いを取り去り、贖いの辻褄だけで語るとこうなる、という見本のような文章です。
 
幼児のような信仰は回復されてはいないと思います。シャロームのような、罪を悔いない者もいるので、ますます、人間は罪と偽善に走らないように注意する必要があります。
 

幼児のような信仰はイエスが幼児のように神のみことばと聖霊の導きによって十字架の死に至るまで従い生きられたように、御言葉と聖霊の導きに対する幼子のような信仰によって生きることなのです。ですから、イエスさまはご自分の死を前にして語られた遺言によって、そのことが明らかにされているのです。(ヨハネ14章~16章)

 
幼子のような信仰によって、信仰者は生きられてはいないと思います。だから、信仰が必要になり、悔い改めによって、信仰も成長する必要があるのです。
 
幼子から最も遠いところにいるのが、シャロームです。辻褄にのみこだわり、余計な理屈ばかりこねています。
 

弟子たちにイエスは今は、知性や理性では耐えられない、理解を超えたことだとイエスは語っておられますが、しかし、助け主である聖霊がイエスの死、御業、語られた言葉、神の御心を、イエスの死後、あなたがたに教えてくださいますと語っておられるのです。
このようにして神はイエスによって幼児のような信仰へとわたしたちを導いてくさるのです。まさに人にはできないが、神にはできる律法の成就であり、救いの成就です。

 
十字架の後、弟子たちは、結局、キリストを理解しました。助け主である聖霊を、シャロームは、超常からの魔法で教えられるかのような言い方をしていますが、聖霊も導きも、キリストの愛と同じように、人間としての情感と共感によって、人間らしい感動と情熱を持った信仰に導くのです。
 
シャロームの、魔法や奇跡のみで信仰が出来ているような、よこしまで、人間離れした言説に惑わされないでください。
 
幼子のような信仰は、ふつう成就したとは言いません。シャロームが、そのような信仰へ導かれると豪語するのは、奇跡でそうなる、または、奇跡で自分はそうなってる、という傲慢の口であります。だから、シャロームは、人間の共感を否定しているので、成就としか言えなくなります。実に、ホラーのように冷たい成就なのです。
 

たしかにキリスト教という一宗教の考え方としてはきっとわかりにくいと思います。でもきっと自由さんなら、これが本来の姿である人間の心の神に対する幼子のような信仰、信頼を、神のようなものになれると騙し、偽り、自由意思を奪い、主体性を奪い、善悪の基準をすべてカルトの支配者にゆだね、支配されカルトのいうがまま罪の奴隷とされ隷属化された人間を支配者であるカルトのボス?から救い、解放し、癒すために、神がイエスという救済者、解放者、癒し主を遣わされたと想定すればわかりやすいと思いますがいかがですか?

 
キリスト信仰は、人をカルトから救うかもしれませんが、その先に、シャロームの超常奇跡信仰が、ふんぞり返っているのなら、別の人間破壊であり、シャロームのようになるなら、信じないほうがマシだろうと思います。
 

確かにイエスは騙され、的外れの罪の奴隷と化している私たちを救い、解放し、癒す方なのです。現実にカルトに勝利し、囚われている人を解放し、人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思を回復し、その自由意思と主体性を回復するために神がイエスを遣わされ、罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはないと思われますが、いかがでしょうか。

 
人それぞれの自由を超えた、・・どう超えるのでしょう。シャロームのように人ではなくなるのでしょうか。これは、誇大広告と言ってよいでしょう。
 
神に対する自由意思、・・これも、シャロームの勝手な造語ではないでしょうか。シャロームは、こう言えば、何か、うまくいきそうな気がしただけではないでしょうか。
 
人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思、・・(シャロームのような)欲望からの自分勝手ではなく、進んで神に従う心を言っているのなら、そのまま言えばよいのです。何かにつけ、造語的に、かっこよく、ぶった言い方をしたがる人は信用できないという見本でしょう。
 
罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはない、・・ほとんど脅しています。シャロームの丁寧語は、つまるところ、余裕のない単方向なので、最後には脅迫の文言になりやすいということです。
 
(自由さんからの引用)
>「痛い目に遭った過去」、「迷信深く、思い込みが激しいところがある」
 

 自由さんのその気持ち私もあります。
 痛い経験や迷信など、私たちの心、生き方を不自由にしているトラウマを乗りこなすのは難しいですね。やはり辛いこと、思い出したくないことの再体験は嫌でつい避けて通りたくなります。
でも振り返ると私の大きな生き方の転機はいつも行き詰まりやそういう避けて通りたいときに開かれたことが多かったように思います。よく危機はチャンスだなんて言われますが、確かにそうだなと思います。

 
シャローム教の勧誘は、かなり、しつこくなってきました。
 

 神はその時、私をいやなトラウマから自由にして、神による新しい道を開かれる時だということは聖書に一貫して証しされていることのようです。

 
言葉だけの保証。実際、シャロームは、何の責任も果たさない人です。
 

イエスの十字架の苦難と死はイエスにとって最悪の出来事ですが、それが父なる神の最善の道だと信じて、まさに幼児が親の手にゆだねるように“私の思いではなく、御心のままにしてください”と祈られたイエスさまの祈り、信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。

 
御心のままに、・・この祈りの言葉に、最も背いてきたのがシャロームなのですが。
 
「信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。」・・安さがにじみ出ている。そろそろ、伝道者?としてのシャロームが、誰も説得できないことを感じてほしいところです。
 

人と他の生き物との違いは本能に従って生きるか、本能と自由意思をもって三次元世界における目的、意味にかなう行動、生き方を選択すること、またその生き方がどのような死後の三次元以上を世界、地獄や極楽、天国、神の国を招くかを考えたりすることと言えるかもしれませんね。だから人は寺院をつくり、宗教的な儀礼や墳墓に副葬品を備えたりするのではないかと思います。このこと自体はどんなに科学が進歩しても、古今東西、人の心にあり、特に日本人の心にはアニミズムに由来する因襲が日本文化の核になっていることは否定できませんので、日本人が日本人である以上なくなることはないと思われます。今日の政治風潮も明らかにそういう強い傾向への回帰を感じさせます。

 
天を指して三次元と言っているのでしょうか。空間建築の宗教性の話に、いつから成ったのでしょう。ついていけない、これが、ふつうになってきます。
 

私たちの過去の心の痛みや苦しみ、不安、飢え渇きから解放し、癒し、真の自由を与える方がイエスだと私は信じ、それが真実であることは聖書の証言でもあり、私の体験として知っています。

 
次に戒めているようなことを、今言っているのは、シャロームです。なぜ、シャロームは、しつこいのか。説得できなかった、失敗、負けた、・・で、終わりたくない意地と欲望です。
 

真理はあなたがたに自由を与えますなんて人が言える言葉ではありませんし、さらに、イエスは私は道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ませんと言ったり、それは狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。私もそう思います。カルトの教祖にはそういう人物もいるようですね。イエスも伝統的なユダヤ教によるとそういう人物だと断罪されたのです。

 
物わかりのよさそうなことを言っていますが、シャロームは、実際、しばしば、聖書語で、都合の良い聖句で、このような絶対言葉を発してきたのです。狂気の沙汰ということを、誰よりもしてきたのがシャロームです。
 
「狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。」・・神でなければ、という仮定でキリストを場合分けできるのは、キリストを概念の軽さで考えているからです。また、キリストの、洞察力や共感性、という優れた人格的能力も無視しています。とうとう、シャロームは、キリストに、彼のボロクソ節を向けているのです。
  

カルトにかかわった人はほんとうに深いトラウマを心に負いながら、「もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないと」と長い間新たな心のよりどころを求めながらも、フォビア(恐怖)と戦っておられる人が多いことは私も数人知っていますし、否定できない事実です。私も決して例外ではありません。私が劣等感のないオープンな人だと書いておられましたが、わたしにも同じような防衛機制がはたらいているのです。自己防衛機制は決して悪いものではありませんが、同時に自分の心の自由な働きを規制し、拘束する働きでもあります。

 
劣等感どころか、攻められることへの怨念が、シャロームのベースだと思っています。したがって、根拠のない優越意識があり、防衛機能というより、がちがちの保身機能があります。だから、コメントを削除したり、弁明できなくなると、当てつけや皮肉を言ったり、黙ったりします。追い詰めると、保留も訂正も謝罪もせず、どこまでも、醜い本性を表すでしょう。
 

同化も投影も反動形成も、知性化も・・・私たちの防衛機制として働いていますが、他の人を批判したりしていても、ある意味自分を守るバリアーでもあります。
 自由さん。自由さんだからこそ、私はこうして私の思うこと、信じることを自由に書いていますが、だれにでも書けることではありません。それは自由さんが自由であり、真剣に自由に生きようとしておられるからです。自由さんの心に踏み込んだり、批判をしている意図はありませんので、いつでも自由に思うこと、感じることを書いてください。

 
すでに、かなり踏み込んで、言っていることの質を考えると、踏み荒らしているとも思いますが、べた褒めですね。自由さんが、人の言うことを気にしない、という似たような考えを持っているので、付き合えると思っているようです。
 

ほんとうに自由であることには自分のうちや外との戦いなしには生きることは出来ませんね。

 
シャロームの戦いは、はぐらかすこと、無視すること、憎まれ口をたたくこと、根拠なくても言い張り続けること、気にしないこと、コメントを削除すること、反省しないこと?、悔い改めないこと?、嘲笑いの「(笑い)」を付けること、しばらく黙り込むこと、荒らしやカルトの助けを得ること、ウイルスを送ること?(去年6月の疑い)、こっそりコメント欄を漁って書き込むこと、フェアでないこと?、忘れること、などでした。
 

この世にあってはあなたがたには戦いがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っていると言われたイエスがいつも共におられます。私たちが自覚しようと自覚できないとしても。
SHALOM!

 
上のようなシャロームの戦い方で、よく聖句を引用できるものだ。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)16:33
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 (ヨハネ書16:33、新約聖書)
 
シャロームは、いつも、自分で勝とうとし、神の勝利を信じておらず、神に任せることが出来ないでいる人です。
 
 
「砂のような黴のような」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20053633.html
「 
 >神の裁きは神の御手の中にあることですから、お任せすることが最善なのです。
  
 神に任せることをしないで、自分で強制力で、偽善を隠蔽したのは、あなたです。」
 
 
(2019年01月30日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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