ミイラの徘徊(3)
 
  ★カルト体験 
 (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
 反省できなくなってしまう?)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
 コメント欄。
 
 
シャロームの偽善者としての強心臓が、ずっと表れて続けています。どんなに不都合なことが起こっても、起こった出来事の事実そのものを記憶から排除できるのでしょうか。そのような無視の能力を、いったい、どこから吹き込まれて、また、できるんだという確信のもとに、記事を書き続け、コメントを書き続け、偽善の罪状を、天にも地にも積み重ねてゆくのでしょうか。
 

教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。

 
聖書に聖霊や霊感のことが書いてあれば整合性があるからいい、というものではないのです。聖なる存在には、常に、恐れをいだいていなければいけません。聖書に書いてあるからと、聖霊の名をみだりに使ってはいけません。
 

 使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。
 新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 
「とどまっていなさい」とは、シャロームのように固定して訂正不能でよいということでは決してありません。「だれから学んだか知っており」「あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて」とあるように、学んで準備をする務めがあるのは言うまでもないことです。不完全な罪びととしては、学習可能、修正可能であることが必須なのです。
 
聖書は救いで、整えられたものになる、と聖句は言っています。ここは、聖書に書いてある、聖書の言葉と整合している、と言って悪用する者が出てきそうです。シャロームが載せていない直前の聖句を見てみると、
 
 (テモテへの手紙、口語訳)
3:12
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
3:13
悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
 (テモテ3:12-13、新約聖書)
 
ということが書かれてあります。つまり、自説を正当化するために、聖書に書いてある、書いてあると、だらだら無駄に長い文章を書いて、悪用をする者がいるということです。
 

ほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。

 
神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないと、その通りに自分には聖霊が降りていると言いたげに、神聖のみを根拠とする人は、人間としての説得の根拠を持たない人ですから、信用しないほうがいいと思います。人間は人間としての学習と成長への努力が必要です。
 

(自由さん)
「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」


 神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。

 
人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の”通り管”だとでも言いたいのでしょうか。絶対正義の神の立場で、そういう場合もあるのです、とでも言うのでしょうか。
 

確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。

 
シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに引き寄せたでしょうか。神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
 

神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。

 
シャロームが上で神が尊重すると言ったシャロームという人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。何も益とはならず、真っ直ぐにもならず、シャロームは、何事も無かったかのように、自説を説教し続けています。シャロームの言行も因果も矛盾しています。
 
弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。
 
シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
 
 
シャロームの詭弁を、もう一つ、ここに書いておきます。
自由さん「アドラー心理学」コメント欄より。
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41368232.html
一部編集。
 
(シャローム)

口語訳ロマ2:1~
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 【口語訳】二コリ
7:10 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
(シャローム)
 悔い改めは人が人に要求できるものではなく、神が与えられる恵みです
2018/10/4(木) 午前 8:03 [ shalom ] 返信する

 
(私)
正しい裁きというのは、神という絶対が、多くは強制的に、背く人に対して下すものです。人が、自分を絶対の正義に置き、誰かを悪と決めつけて、何らかの制裁を下すなら、神に背いて裁くことになるということを聖句は教えています。それを、冷酷にやっているのは、むしろシャロームであります。シャロームの前提には、自分の絶対正義があり、ゆえに、聖句を引用すれば、その目的も解釈も神の御心に適っているという前提が訂正不能になっているのです。
(私)
私は絶対の正しさなど持っていないので、言論によって、シャロームの誤りや矛盾や詭弁や卑怯さなどを指摘してきました。ゆえに、裁くということとは明らかに違います。私は、遠慮なく書いているので、それが気に入らないシャロームは、聖句の悪用をもって、裁いている、裁いていると、わめいているに等しい決めつけをしています。その決めつけこそが、裁いている思考と志向なのです。絶対ではない自分を知っているなら、悔い改めるはずです。シャロームは、全く、その逆を走っています。
(私)
「神の慈愛があなたを悔改めに導く」「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救神のみこころに添を得させる悔改めに導き」という聖句は、神の慈愛を受け取った人は、その愛ゆえに悲しみを癒やされ、罪を赦されるゆえに、悔い改めるということです。
シャロームは、教条的に、言葉の辻褄だけで、神が導く、という言葉を吊り上げて、悔い改めは神が与える恵みだと言っています。
(私)
上の聖句によると、この約7年間、恐らくずっと前から、悔い改めたことのないシャロームは、神の慈愛を受け取ったことがない、ということになります。それで説明がついてしまいます。
(私)
シャロームは、聖句を、超常の辻褄と教条だけで受け取って上のような聖句を悔い改めないことの根拠にしたいようですが、じつは、せっせと墓穴を掘っているということです。
(私)
シャロームの詭弁は、心で受け取ることのないシャロームの、本当の悲しみを知らず、本当の神の慈愛も、キリストの共感もキリストへの共感も知らないことからの必然であるのかもしれません。私は、もはや、シャロームに悔い改めを要求している段階にありません。ただただ、シャロームの詭弁の影響を誰も受けることがないように、批判記事を書いています。
 
 
※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から
 
http://toikimi.hateblo.jp/entry/2018/07/11/211656
 
庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)
 
https://twilog.org/cminds_bot/month-1508/3
 
物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)
 
経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)
 
人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
 
 
(2019年01月31日アップ、同日一部修正)
 
塗れる(まみれる)
 
 
 
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