目を背けるところ
 
   安息日は心の財布の点検デー
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28895223.html
    2019/2/15(金)午後 5:47  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、手口として、誰かの記事を引用した記事と、別のサイトに書いたコメントを記事にしたものを、書きます。そうすることで、自分がキリスト者としての節操を失っていることを、嘘の讃美に置き換えて、ごまかそうとするのです。
 

+++++++++
★今日のみ言葉★(2016,2,10)
+++++++++
「目を向けるところ」

 
シャロームは、目を背ける人です。
 

自分の心の目が、いつもどこを見ているか、そのことを意識したことがありますか。
自分は何に目を奪われているのか。
何に心を奪われやすいのか。
そういうことを思ったことがありますか。

 
シャロームは、罪を認めず、悔い改めもせず、平気で嘘を吐き、相変わらず不都合なコメントを記事に載せず、自らの瑕疵を総て隠蔽して、一方で、神を讃美しまくる、という、自分から、そして、誰よりも、神から、目を背ける行為を続けています。
 

詩篇25:15~17
わたしはいつも主に目を注いでいます。
わたしの足を網から引き出してくださる方に。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。(新共同訳)

 
シャロームは、悲哀の共感が出来ません。罪悪感に悩むことが嫌いです。罪を責められることが嫌いです。それをしなくて済むように、罪を悔い改めるのではなく、悩むのでもなく、痛みを感じるのでもなく、シャロームが何もしなくても、総てを、神が善しとしてくれるという責任放棄の妄想信条を持っていて、私が批判してきた7年の間に、その背きの発言が蓄積されています。そのシャロームが書いた元記事さえも、批判されて都合が悪くなると反省する代わりに削除して、証拠隠滅を図ってきたのです。
 
シャロームは、主から目を背けています。いや、一度も、主に目を注いだことはないのではないかと思います。罪を認めないことから明らかです。にもかかわらず、悔い改めるのではなく、全てを無視する不感不応の精神によって、何事も無かったかのように、平気で、神に救いを求める、という聖句を引用してきます。
 

いつも主に目を注いでいる人が、足を網に捕らえられています。
行きたいところに行けないのです。
行動の自由が奪われています。
貧しく、さびしく孤独な思いをしています。
心に悩みがあり、痛みもあります。
主から目を離して、主を無視しているから、こんな経験をするのだと思ってはいません。
主を信じる者も、この世にあって悩みがあります。
しかし、そこから引き出し、そこから解き放ってくださる主がおられます。
だから、いつも、その都度、どうするのでしょうか。

 
シャロームは、悩むべき時に悩まず、あらゆる痛みを回避するために手段を選びません。不可避の悩みも、忘れてしまう体質なのか、無かったことにしてしまう習性なのか、いっさい罪を感じないようです。だから、罪を犯したと悩むことも悔い改めることもないのでしょう。信仰によって解き放たれるのではなく、自分に閉じこもって不都合なことを聞かないで無視することを選び、神から信仰から目を背けることによって気にしないのす。
 

 
誰でも悔い改めるべき罪を犯しています。罪はないとか、悔い改めなくていい、という人は、一人もいません。言い換えるなら、人は、みな罪人です。
 
悔い改めの祈りによって、それを正直に告白する機会を与えてくださるのは、神であり、それをさせるのは、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。精いっぱいの正直な告白でよいのです。自己正当化のために故意に隠したりしなければよいのです。
 
根掘り葉掘り、これも罪、あれも罪と、詳しく言う必要はないのです。何故なら、全知全能の神を信じているのだから、神は、告白する前に、全てをご存知だと考えるべきだからです。神は、人間が、自分の意志で、正直に告白してくるのを待っておられるのです。
 
このように秘密をもって飾らなくていい大いなる寛容な神という相手を知ることが、奇跡で守られるという人間離れした心ない思い込みや信じ込みの宗教とは違って、他者からの自由と、絶対孤独からの解放、という、生きる上での易しくない課題を両立させるところの、キリスト信仰の大きな恵みであります。

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:2
わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:2-4、新約聖書)
 
神は、慈愛と忍耐と寛容とをもって、信仰者を悔い改めに導きます。それでも、悔い改めないということは、その者が、いかに神を讃美しようとも、その者は神の導きを受け取っていない、ということを自分で証明することにしかならないのです。
 

 

十字架の道を歩まれたこの方に心の目を注ぐのです。
自己主張、人を赦せない、そういう自分に死ぬ十字架の道に身をおく者は
復活のいのちを生きる者となります。

 
シャロームは、目を背けているのです。いや、最初から、利用するだけで、信じてなどいないのでしょう。十字架の道に身を置くなど、とんでもなく、復活の命をあざける者となっています。
 
>《shalomのコメント》
 

“あなたの宝のある所には、心もあるからである。”(新約・マタイ6:21)
イエスさまの言葉です。

 
シャロームに騙されないようにしましょう。聖句の一部を持ってきて、自分の心にあるものは正しい宝だと、ほのめかしたいようです。同書同章聖句は、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:19
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21-22
あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
 (マタイ6:19-22、新約聖書)
 
地上の宝を戒めている文脈です。目が澄んでいることが大事だという教えです。
シャロームは、目が濁っていて、虫が食い、錆びて、盗みを働くような眼差しで、恣意的に、自分に都合の良い聖句だけを引用しているのです。、
 

宝なんてないと思っていても、私たちの心は知っているようです。
私たちがいつも心をとめているところに宝があるというのです。
それが私たちの心を豊かにするものだといいですね。
でも、ひょっとしたら、思い出したくもないことかもしれません。

 
実際、シャロームは、批判されてきた7年間に露呈してきた、嘘と、罪と、偽善を、いっさい、気にしていないから、何とも思っていないから、この記事のような、白々しいことが書けるのです。忘れる習慣なのか、無かったことだと見なす信念なのか、いずれにしても、キリスト者とは、正反対の習性を養ってきているようです。
 
4行目は、「(笑い)」が入っているのと同じ、ふざけた言い方で、こういう癖がシャロームにはあります。シャロームは、ふざけてよい状況ではないことを、全く自覚していません。
 
ただ御一方、神の前で、故意に嘘を吐かないことが、救いのための唯一の必要十分条件です。
 
神の前で、恥ずかしい祈りは出来ませんよ、とか思って、神の前で飾ったりしても、いくら讃美言葉を並べても、神の前での、精いっぱいの正直な告白の出来ない者は、キリスト者ではないのです。神の前に体裁を繕うことで、神を騙せると思っているからです。
 
シャロームは、悔い改めをしていないことを指摘されると、悔い改める、または、悔い改めていると言う代わりに、悔い改めは神が与えるから人から強いられることはないと言い逃れをします。強いてはいません。救われる救われないはシャロームの自由だが、悔い改めなければ救われることはないと言っているのです。
 
他の信仰者や求道者に、そのような信仰を吹聴するのは悪質な迷惑行為です。つまり、自己正当化を企み、嘲笑いながら、福音伝道などと言っているシャロームは、キリスト信仰を侮っているとしか思えません。
 
>私たちの心をしっかりとらえているものが私たちの神様と言えるかもしれません。
 
神に心を捕らえられられているなら、罪の告白と悔い改めの祈りをするはずです。シャロームは、する必要がないと言って、その発言を訂正していない。また最近では、悔い改めは、神が与えると言って、信仰者なら自分で悔い改めをするべきところを、必要ないかのように、詭弁で言い逃れようとしたのです。
 
シャロームの心を捕らえているのは、訂正不能の自己中心の自己顕示欲です。神に捉えられた人からは敬虔が表れますが、シャロームの丁寧語と聖書語は、上滑りで心無く、その奥の殺伐とした精神を隠すためなのです。
 

今日は15日、イオンのATSの前にたくさんの人が並んでいました。
私たちは財布のなかのお金にはいつも心を配りますが、
私たちの心という財布に入っているものにはあまり心を配らないようです。
財布にはたくさんクレジット・カードとポイントカードでいっぱい・・・
でも心のなかはすきま風が吹き、底は破れているみたい・・・
消費税も上がるとか、何とかショックを和らげるためにあの手この手が…
時には、立ち止まって、自分の心の財布を点検してみてもいいのかもですね。
神さまは私たちに安息日を備え、手のわざを止めて、仕事を休んで、
心の安息はどこにあるかを忘れないように招いておられるようです。
安息日として、日曜日に教会に行くのはそのためではないでしょうか。

 
シャロームは、こんな日常の談話を挟んで言えるような信仰生活ではありません。作った芝居の世間話に話を逸らして、自分の罪と偽善から目を背け、また、ごまかそうとしています。今のシャロームのまま、何万回、教会に行ったとしても、シャロームが丁寧語と聖書語とで話をしたがる分、福音伝道において、有害であります。
 
どうか「ですね」や「ではないでしょうか」に騙されて頷くことのないようにしてください。批判的な目を持たずに、シャロームと関わるのだけは止めてください。シャロームは、荒らしやカルトよりも、分かりにくく、ごまかされやすい分、より悪質な軟派カルトの偽善者です。
 
 
(2019年02月23日アップ、同日一部修正)
 
瑕疵(かし)
騙す(だます)
頷く(うなずく)
逸らす(そらす)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]