赦しが先?
 
   
https://twitter.com/jiyuu2018?cn=ZmxleGlibGVfcmVjc18y&refsrc=email
   楽山のツイッター
 
 
私は、シャローム、という、罪を認めたことがなく、反省することがなく、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくてよい、と言って、訂正しない偽善者をを批判しているのですが、
 
それに対して、キリスト者でもないのに、嫌なことは気にしないということを信条としているアドラー教(アドラー心理学がカルト宗教化していると判断しています)の楽山は、シャロームの味方をしています。
 
楽山は、コメントでシャロームを援護したのち、直接、反論することをせず、ゆえに、黙っているかと思えば、ツイッターで、遠藤周作の文章から、善魔、という言葉を載せて当てつけ、さらに、他者の本から、赦しが先で改心があと、と書いてある文章を、よく吟味もせずに載せて当てつける、という卑怯な方法で対抗してきました。
 
この歳でも未熟な私は、何度も、キレそうになりました。反省して、今は、少しは冷静に書いているつもりです。
 
画像を一部書き写したものです。
>「ゆるしが先で改心があとなのです」(『キリスト教がよくわかる本』井上洋治、p.57)

ある人に二人の息子があったのですが、長男はちゃんと父親を手伝って真面目に働くのに、働くのが嫌になった次男は、財産の分け前をもらって旅に出てしまいます。しかし酒と女で金を使いつくしてしまい、どうしようもなくなって、父のもとに帰ってきます。息子が帰ってきたのを遠くから見つけた父親は、家から飛び出していき、その放蕩息子を家に迎え入れたというのです。神はこの放蕩息子を迎える父親のような方なのだ、だから私は売春婦などを迎え入れて食事をしているのだ、というのがイエスの答弁だったわけです。
売春婦にしろ、このたとえ話の中の放蕩息子にしろ、彼らが改心するより前に、先ず神もイエスも、これらの人を受け容れているということに注意する必要があります。

 
楽山は、聖書の当該箇所を読んだのでしょうか。読まずに、赦しが先、だから、シャロームが正しいと判断して主張したのなら、これほど無礼な男はいません。
 
シャロームは、そういう楽山に対して
 
「 > 楽山 (自由)さん おはようございます
「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話の良き手本はどのような対話であるかを教えてくださりありがとうございました。
また「人間らしい」「人間ならば」の双方向の対話ができないと心の健康を害することをも身をもって教えてくださりありがとうございました。
2019/2/17(日) 午後 0:09[ shalom ]返信する」」
 
このように、シャロームは、過去においても、今回も、自分が何の反論も弁明も出来ないために、楽山に対して、無条件の賛同をしています。シャロームは、賛同者には、いつも、白々しい褒め方をする、というようなことは、すでに何度も書いてきました。「人間らしい」「人間ならば」どちらも、シャロームには当てはまりません。
 
放蕩息子の話は、キリストによるたとえ話です。親は神、息子は私たち人間を喩えています。長いので、一部抜粋して引用します。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
15:14
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
・・
15:17
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
15:18-21
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
・・以下省略・・
 (ルカ15:14,17-22、新約聖書)
 
放蕩息子は明らかに悔い改めています。
 
また、この話は、その直前の2つのたとえ話と関連しています。同書同章の
失われた羊の話より
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
銀貨を亡くした話より
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
という話との関連でキリストは語っています。ひとりでも「悔い改めるなら」と書いてあります。悔い改めることが、それほど重要で、かつ、いかに天の喜びとなるかを書いているのです。
 
井上氏の引用中の「先ず神もイエスも、これらの人を受け容れている」というのは、神とキリストが、既に、これらの人がどのようであるかを知っていること意味します。つまり、これらの人は、罪を自覚し悔い改める人だと分かっているという話なのです。
 
決して、何もわからないまま、赦しを先に与えて何でも好きにさせる、などということではありません。これらの人は、シャロームや楽山の自分勝手とは全然違うのです。
 
したがって、シャロームも、聖書の放蕩息子の話を読み取っていない、ということが明らかになっています。信仰に直結する有名な話なので、シャロームは、信仰に直結する聖句を理解しておらず、キリスト者ではないと判断しています。
 
前に書いたことを、もう一度書きます。
 
実際問題として、
赦しが先というのは、人間同士の言葉と付き合いの綾(あや)というもので、ここで先に赦してあげたら・・(何らかの、より幸いな気づきを期待できる)、というような、赦す相手が罪悪感を感じ得る人物であるゆえに、先読みが可能な個別の特殊なケースであり、神と人の関係に、個別を当てはめて、赦しが先を肯定し、悔い改めない者を正当化できるような代物ではありません。
 
神について、もし、赦しが先という表現が成り立つとすれば、それは、総てをご存知の神が、赦したのではなく、全知全能の神として、人が罪を犯すことを既にご存知であり、人の悔い改めよりも先に寛容な赦しの御心を持って、悔い改めを待っておられる、という意味でしか考えられません。決して、神が、前もって罪を許可して、好きなようにしてよい、ということはないのです。
 
一般的な説諭として考えれば、罪を認めてもいない者を、先行して赦したからといって、シャロームのように罪悪感をいだけず、罪を認めていない者は、罪の自覚がない者として振る舞うのだから、何の幸いも期待できないのです。そんなことも考えずに、シャロームの味方をする者がいます。甚だ迷惑です。
 
神は、慈愛と忍耐と寛容とをもって、信仰者を悔い改めに導きます。それでも、悔い改めないということは、その者が、いかに神を讃美しようとも、その者には神の導きがない、ということを自分で証明することにしかならないのです。
 
 
シャロームshalomと楽山を、上から命令を下す硬派カルトに対して、刷り込みや印象操作を手段とする軟派カルトと呼んだのは正解だったようです。二人は、無視することによって邪魔なものを排して楽をしているために、洞察力や、文献の理路を検討する努力や、多面的に検討する思慮と、さらに、真実への深い共感性も欠けていることが、言説に表れています。そして、自己中心と無反省から、問題が起こると、いつも、自分を被害者の立場にしか置かない、という特徴があるように思われます。
 
この二人と親しく交わると、否応なしに、影響を受けて、最悪の場合、染まってしまう可能性があります。硬派だろうが軟派だろうが、訂正不能のカルトという異常な思想や宗教に染まることは、進行性に人間性を破壊されてゆくことを忘れないでほしいと思います。
 
 
この地上で、安楽を求める者には、人によっては、いやなことから目を逸らして無視する傾向が見られることがあります。そして、楽なことや、美しいものや、善いものばかりを見ようとするような、楽をしたいだけで、反省をしない者がいることを覚えて、警戒してください。
 
美しいものや善いものをいくら求めてみても、人の思慮も想像力も限界があり、直ぐに、そこから真実を見出すことは、しばしば困難であり、美しいものや善いものばかり見て真実を得ようとするなら、ひとつ間違えば、美しく装うことだけを身につけることになりかねない。
 
醜いものや悪いものから目を逸らさないことが重要である。何故なら、それらを見るとき、怒ったり嘆いたりしている人は、そのとき、必ず、心の中で、その対極に、美しいものや善いものを見ているからだ。

 
 
(2019年02月24日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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