悔い改め
 
 
悔い改めるとはどういうことでしょう。
 
悔いるとは告白です。
神に対して
正直に罪を認める告白です。
 
改めるとは直すことでしょうか。
犯した罪を
罪を犯す前に戻って
犯さなかったことに出来るでしょうか。
出来ないと思います。
 
あるいは
二度と罪を犯さないことでしょうか。
地上に生きている限り人は罪を犯します。
罪を犯さなくなることはありません。
 
あるいは
犯した罪と同じ罪を犯さないことでしょうか。
考えてみてください。
同じ罪というのはないと思います。
犯すたびに
状況も動機も罪は違うのです。
単純ではありません。
 
または
似たような同種の罪を犯さないことでしょうか。
さて
そもそも私たちは
私たちの行為のどこが罪であるか
正確に分かっているでしょうか。
私たちは
神に比べて不完全だという自覚があります。
私たちは
犯した罪に総て気づくわけではありません。
つまり
告白した罪が罪の総てとは限らないのです。
罪を告白しても
告白から漏れた罪があるかもしれません。
その罪に
その後に必ず気づくとは限りません。
 
私たちが不完全であるように
私たちの罪の告白も不完全なのです。
どうして完全に改めることが出来るでしょう。
 
気づいただけの罪を告白します。
自覚した罪を何とか再び犯さないように努めます。
そこまでしかできないのです。
 
したがって悔い改めて
もう罪は犯さないと思っても
その達成は至難の技であります。
 
私たちは罪を改めることは完全には出来ない
ということを知ってください。
 
では
改めるとはどういうことでしょう。
 
告白とともに
信仰を改めること
すなわち
信仰を新たにすることだと思います。
 
何のために悔い改めがあるかを考えてください。
今までとは違った立派な人になれるでしょうか。
それは高が知れていることです。
 
悔い改めは
罪を赦していただくためにするのです。
 
許可ではなく
赦免され裁きを免除してもらうために祈るのです。
 
それこそが再び主のほうを向くことと言ってもよいでしょう。
 
申し上げますが
私たちはしばしば主から目を逸らし
しばしば自分の観念に囚われて
しばしば主から離れているということです。
 
だから
改めて主のほうを向き
具体的には
改めて主の民であることを自覚するためなのです。
 
キリスト信仰は祈りの信仰です。
 
そのために悔い改めがあります。
 
悔いもなく
改めもしないならば
祈ることもなくなるでしょう。
形ばかりの祈りをしても
それは祈りではありません。
 
いつもいつまでも主のもとにあるために
私たちは祈り
そのたびに改めるのは
罪を無かったことにすることではなく
罪を赦されるためであり
何より
赦す主格である主のもとに帰るためであります。
 
ですから
私たちは主の前に
精いっぱい正直であることが必要なのです。
 
悔い改めの祈りは
祈ったから赦されて罪が無くなったいう話ではないのです。
 
神の前に精いっぱい正直であることを
神に対して申し述べることであり
悔い改めの祈りをささげて
主のもとに帰り
全てを神にお任せするための祈りなのです。
 
悔い改めの祈りこそが
いや、それだけが、
信仰者が神のほうを向く行為なのです。
 
 
(2019年02月25日アップ)
 
 
 
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