盲目と強面
 
   奇跡をされる方
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28877266.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、人の記事を読む気がなく、自分の欲求だけで記事を書いていることが、よく分かる記事です。
 
シャロームの信仰は、結論から始まり、結論しかありません。だから全く解説が出来ないのです。根拠は神の啓示と聖霊の導きで、議論の対象にならないと言っていました。しかも、その結論には、人間としての愛も共感も含まれていないのです。
 
その結論は、何度も書いてきましたが、悔い改めなくても罪は赦されるというもので、悔い改めは自分がするのではなく神から与えられるというのです。自分は神の操り人形だと言いたいのでしょうか。シャロームは、それらのことを訂正していません。
 
その信仰から表れてきたのは、嘘と罪と偽善だけでした。つまり、都合の悪いことの、無視と隠蔽と偽装、そして、詭弁です。しばしば嘲笑いを向けてきます。訂正不能のそれらは今も続いていて、あちこちの、あまり喧しく言わない優しそうなサイトを訪問しては、世辞から聖書語への書き込みをしているのです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
10:46
それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47
ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48
多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
10:49
イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50
そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
 (マルコ10:46-52、新約聖書)
 

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★今日のみ言葉★((2019.1.27)
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「人間とは、イエスとは」
この「盲人バルテマイ」の話(マルコ10:46-52)から、人間とはどういう者でしょうか。
ここでは、目の見える人と目の見えない人のことが対比されています。
不思議なことですが、目の見える人の方が信じないで、
目の見えない人の方が信じていたのです。
目が見える人が分からなくて、耳から聞くだけで
目が見えない人の方が分かっていたのです。
目が見えている人は何でも分かっているように思えるのですが、
こんなこともあるのですね。
目に見えない心の問題や霊的なことは特にそうです。
イエスを目の前に見ていた当時の人たちは、見えていることで、
イエスのことを知っていると思っていました。
しかし、この人たちは、目の見えないバルテマイが知っている
ダビデの子としてのイエスのことは知らなかったのです。
今日も同じです。
イエスのことを知識として、ある程度の常識としては知っていても、
心で、霊的には知らないでいる人の方が圧倒的に多いのは、
いつの時代もそうなのかもしれません。

 
バルテマイには、キリストのうわさを聞き、この機会を逃したら、もうチャンスはない、というほどの救いと癒しの強い欲求があったのでしょう。長血を患う女性が救いと癒しを求めてキリストの着物に触ろうとした(マルコ5:24-34)のと同じような強い救いへの欲求です。いずれも、キリストは、その信仰を誉めています。
 
キリストだと言われているこの御方をおいて他にない、という、切羽詰まった欲求は、信仰の強い動機となり得ます。
 
この二人の場合、それぞれの不幸が、それをもたらしたということです。真実の強い信仰は、多く、悲しみを通してもたらされるようです。
 
訂正不能なほど、強く信じたら、奇跡が起こります、という話ではないのです。そういうことは、シャロームなどの、カルトの信条であります。
 
大事なことなので、もう一度、申し上げますが、信仰への最も強い動機は、奇跡が起こるから有り難いということではなく、他に頼りとする救いが無い、という心であります。
 

人間とはどういう者かについてもうひとつ分かることがあります。
人々は叫んでいる盲人を黙らせようとしました。
それは盲人で物乞いをしている人間に対する、
人々の偏見や軽蔑の思いもあったかもしれません。
それとともに、人々は、イエスが大勢の人たちと一緒に行動しておられる時、
見も知らない、ひとりの盲人の物乞いに構ってくださるとは思わなかったのでしょう。
社会的な貢献は何も出来ず厄介者のように思われている人よりも、
人の数の多い方が重視されるというのは、今の時代も同じです。

 
バルテマイをしかって黙らせようとした多くの人々は、キリストに大仰な立派さを期待していたのでしょう。救いを求める先が他にない、というバルテマイの心境は理解されず共感もされなかったのでしょう。激しく叫んだから、迷惑とも恥さらしとも感じたかもしれません。
 
キリストは、バルテマイの、他にないという必死さと一途さを見逃さなかったということです。
 

では、この話の中で、イエスとはどういう方でしょうか。
盲人で物乞いをしている人間に対して、
人々の見る目と違った目を持っておられた方です。
ご自身に心の目を向け、ご自身を求める人に目を留め、
心にかけ、声をかけてくださる方です。
人が見えていない信仰の心を見られる方であり、
また、質問によって、その信仰をその人から更に引き出される方です。
また、信仰を見られて、癒しの奇跡をされる方です。
さて、盲人バルテマイの、その信仰は、どこでどのように養われたのでしょうか。
次回に続きます。

 
奇跡が本当に起こったかどうかは分かりませんが、何らかの癒しはあったのでしょう。
 
分からないと言ったのは、盲目が見えるようになる奇跡が起こったと言えば、シャロームのような奇跡のみに依存する偽善者が喜び、また、多くの信仰者が、滅多に起きない物や肉体の奇跡のほうを期待してしまう危惧があるからです。
 
>《shalomのコメント》
 

奇跡といえば、超自然的なことだとおもいます。
もちろん生ける神は無からこの天地を創造された方ですから、
人の思いも力の及ばない御業をなすこともおできになられます。
しかし、そういうことばかりではないようです。
たとえば、心や体の病気や苦しみ、悲しみにもかかわらず、
それを受け容れ喜んで生きていることも奇跡です。
自分の過ぎし日を省みて、
あの砂浜の足跡という詩のような
奇しき足跡という奇跡も見せてくださいます。
聖書に“数えよ主の恵み”と言葉という言葉があります。
あなたも奇跡を発見し、数えてみませんか。
きっと生きる希望と勇気が与えられます。

 
だとすると、シャロームは、キリストに背負われた、その背中で、罪の悔い改めを拒否していたことになります。それは、キリスト者には、決してありえないことです。
 
>「あしあと」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 
これについては、前にも記事にしています。
「比喩」
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19977921.html
そこから、引用しておきます。
 

 
私に真実を語ることが出来ているということではなく
私のような下手くそでも
善の言葉だけでは善は表せない
ということくらいは知っているということです。
前にも書いたことですが、
良いことばかり言っても、良くはならず、
悪を描いて肝に銘じるほうが
善の追求には資するところがあると思っています。
  
キリストが、おんぶしてくれたから
足跡が二人分ではなく一人分しかない
という、foot print と呼ばれる話を
偽善者も好んで使っているようです。
  
この話は、信仰についての、とても良い話なのです。
ただ、この話には、悪が登場しないのです。
信仰者が頷きやすい良い話は
偽善者にとっても都合の良い話なのでしょう。
  
ちなみに、前から批判対象としている偽善者は、
この話を記事に載せましたが、今は削除しているようです。
偽善者は、都合が悪くなると隠蔽するのです。
 
 」
 
シャロームは、悪が登場しないという注意点を書くでもなく、また、この話を引用してきました。シャロームは、私の記事など、読んでいないだろうと思いますが、いったん削除したことがあったと思います。しかし、このフットプリント足跡という詩を、また、載せていることになります。
 
悪が登場しないという注意点の指摘が必要と思いますが、偽善という悪においては、悪が登場することのほうが不都合なので、良さそうな話だけを載せることになります。
 
シャロームは、都合が悪くなると、自分の記事も削除します。過去に批判したシャロームの記事が、多く削除されています。不祥事に際して、弁明するのでも反省するのでもなく、隠蔽をするのがシャロームであり、保身の鬼であり、丁寧な言葉遣いの裏には、強面の権威主義を隠し持っているのです。
 
盲目で見えないバルテマイは救われた者。
 
隠して見せないシャロームは救いを拒む者。
 
 
信仰が悲しみを通してもたらされるからといって、悲しみましょう、なんてのは、現実的でもない、変な話になりますから、むしろ、悲しみが訪れたときに、救いと癒しを通して、信仰が成長する、という希望として受け取ったほうがいいだろうと思います。
 
 
信仰とは、教えられた超常の話を思い込み信じ込むことではない。
 
信仰とは、それなしでは生きられない、というほどに、望み続けること。
あるいは、信仰とは、それ以外に、希望がないということ。
 
 
(2019年02月26日アップ)
 
隠蔽(いんぺい)
嘲笑い(あざわらい)
詭弁(きべん)
喧しい(やかましい)
頷く(うなずく)
強面(こわもて)
 
 
 
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