赦しが先?(2)
 
   楽山ブログ:ゲストブック
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/GUEST/41469556.html
   コメント欄。私のコメントは記事専用です。
 
 
(私)
信じてもいない神のことを、誤解と曲解によって、とやかく言っている楽山です。
 
(楽山)
>立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20101472.html
これは放蕩息子の話とのことですが、この部分を読むと、先にゆるしがあるのではないでしょうか。
2019/2/26(火) 午前 5:54 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
この息子の発言を、悔い改めというのです。父親は神に譬えられています。このことを記事にも書いているのに、やはり理解していないのは、キリスト教も聖書も分かっていない証拠です。そして、自説以外は何も受け容れない姿です。シャロームは、この悔い改めをしてこなかったから、悔い改めは神が与える、などと、言い逃れの詭弁を弄しているのです。
 
(楽山)
上の文章は、整理するとこうなるでしょう。
・子は父に謝ろうと決意する。
・父は子の姿を遠くに見た瞬間、走り寄り抱きしめる。
・子は父に悔い改めの言葉を述べる。(父は子から悔い改めの言葉を聞く)
こうしてみると、父は、子の悔い改めを聞くより先に、その姿が遠くに見えた時点で、すでにゆるしているようです。
父は、子の悔い改めを知るより先に、ゆるしてる。
 
(私)
赦したのではなく、赦そうという心なら、父すなわち神はずっと持っていて、悔い改めるのを待っておられます、という喩えが分からないのでしょうか。息子が、悔い改めたので、赦したのです。楽山は「赦しが先、悔い改めがあと」をどうしても成立させたいがために、詭弁を弄していて、恐らく、反省したくないだけなのです。
 
(楽山)
子の視点からすれば、悔い改めのあとにゆるしを得たように思えるかもしれないけど、
父の視点からすれば、ゆるしが先だったということ。
 
(私)
私たち人間は、人間にとってどうなのかということを考えるべきなのに、楽山は、神は赦していたと、神の立場に立って、繰り返し言い張っているのです。
(私)
悔い改めなくていいはずがありません。神の救いは、人が悔い改めから始まります。読むにあたって、正常な人なら、上のような、とぼけた発言はしないでしょう。曲がった読み方しかしていないのが楽山です。キリスト教について、何も語ってほしくない人です。おとぼけが続きます。
 
(楽山)
ではいつゆるしたかと言えば、話の最後に「いなくなっていたのに見つかったのだ」と父が言って喜んでいることからすれば、子がいなくなったときにはすでに、ゆるし、その身を案じていたのかもしれません。
 
(私)
帰ってきて悔い改めたから赦したのです。いなくなったから案じても、どうして赦したことになるでしょう。父は帰ってくるのを待っていたのです。そして、いなくなったことを悔い改めるのを待っていたのです。それは愛によるものであって、それで赦していたとは言わないのです。
(私)
神の赦しの心すなわち愛と、赦されて始まる人の信仰とは違うのです。自説を言い張るような者がいて、罪を認めず、悔い改めず、それでも一人前のような振る舞いなら、決して赦されることはないということです。成り立つ信仰を、たとえで語っている聖句であります。
(私)
案じることを、赦すことと同時に使って、すり込もうとする意図を感じます。もう一度言いますが、これは信仰の話なのです。悔い改めなければ信仰は始まりません。知りもしないのに、キリスト信仰を語らないでください。自尊と高慢によって引っ込めなくなっている姿が見え見えです。
 
(楽山)
父が子をいつゆるしたかは明文ではないようだし、この辺りの議論はなかなか決着はつかなそうだけど、私はこのように想像します。
2019/2/26(火) 午前 5:58 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
分からないのでしょうか。息子が悔い改めた時点で、父は息子を歓迎しているから、喜んで赦しているのです。楽山には常識がないのでしょうか。ひょっとして、まだ聖句を読んでいないのか。聖書全部とは言わないが、聖句を読まずに聖書を語るか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
15:21
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
15:23
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
15:24
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
 (ルカ15:22-24、新約聖書)
 
(私)
もし息子が、金よこせ、とでも言うようなら、同じ反応はなかったのです。しかし、たらればのないたとえ話ですから、キリストは、ここで、悔い改めが大事だと言うことを、放蕩息子という悔い改めの話をして、人に向かって、繰り返し説いているのです。信仰を知らないのに、あまりキリスト者を煩わせないでください。
 
(楽山)
>15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
 >15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
(楽山)
この部分だけを読むと、天は、悔い改めをよろこぶようです。悔い改めによってゆるすではなく、よろこぶとしている。
これは、ゆるしは悔い改めより先行していたことを示しているのではないでしょうか。
 
(私)
また詭弁です。引っ込みがつかないですか。赦しは神が与えるもの、悔い改めは神の民になるために人がすること。その悔い改めを喜ぶのが神の愛です。悔い改めるのが人の信仰の始まりです。 
 
(楽山)
「天は人をゆるし、その悔い改めを待つ→人が悔い改める→天はようやく気づいてくれたとよろこぶ」という流れ。
 人は悔い改めによってゆるされるというよりは、悔い改めによってゆるしに気付けるという一面もあるかもしれません。
2019/2/26(火) 午前 6:00 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
それを、赦される幸いと呼ぶのです。言葉遊びは止めてください。
 
(楽山)
私の意見は、そうではなくて、こうです。
・『ゆるしが先で、改心があと』という考え方がある
・これはそれほど特異な考え方ではなく、これをもってカルトとはいえない
・『ゆるしが先で、改心があと』と信じなければならないとは思わないが、そういう考え方があることは認めるべきだし、それをもってカルトとはいえないだろうということ。
 
(私)
『ゆるしが先で、改心があと』を理由に、シャロームは、改心せず、罪を認めず、悔い改めもしないでいます。報いは、シャロームが受けていますし、これからも受けるでしょう。楽山が責任を取るとでも言うのでしょうか。
 
(楽山)
stさんは、人の心を悪く想像し、その意見を歪曲して非難するということを繰り返してます。気をつけてください。
2019/2/26(火) 午前 6:02 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
悪いものは悪いと言うのです。楽山は、楽がしたいので、不快が嫌なので、無視した分、悪いかどうかが分からなくなって、悪いということを、いっさい、言わなくなっているだけです。歪曲しているのではなく、楽山が、なぜか、知りもしないのに、味方しているだけです。
 
(楽山)
ゆるしが先ということについては、私としては、これだけで了解してもらえれば十分です。
ゆるしが先という意見があり、それにも一理あることを了解してもらえれば、賛成、共感、支持までは求めてませんので。
2019/2/26(火) 午前 6:03 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山の言い分には、一理もありません。信仰の言葉を何も理解していない人の、傷つけないという慢心からの、善に見せかけた、二度に及ぶ遠回しの当てつけと、乱暴な発言であり、キリスト信仰者を惑わす発言です。二度と言わないように。
 
(楽山)
>こうして自分のことを言って、柔和に対処しているつもりの保身です。
>答えられず、読まない、しない、流される、主張しない、我慢、と
自身が謙譲することによって、傷つけなかった、傷つかなかったと、
 楽山は、アドラー教に照らして、気が済むのでしょう。
>権利主張したり、戻っちゃった、反省、などと書いて、
 楽山は、手をデスクか何かについて、寄りかかり傾いて、
 反省したのでしょうか。いつぞやのテレビの、猿のように。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
また、stさんは他人の内面を悪く想像し、決めつけ、貶めてる。これは悪い癖です。
2019/2/26(火) 午前 6:04 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
楽山は、不利な刺激、つまり、不利な発言を、無視する信仰を持っています。そういうところは、都合の良い見方として、シャロームも持っています。こういう人に対して、やさしいことだけを言っていると、何も言わないのと同じことになりやすいので、表現や比喩など、遠慮せずに、辛辣になっています。今回は、緩いほうです。
(私)
もとより、私は社交をするつもりはないし、今回も、楽山の文章を読んで、楽山は、自らの知識や思考や感性の範囲を弁えていない態度ですから、こういうことが、これからもあるなら、同じように言うでしょう。私は、今しばらく生きている間、悪い癖として存在するでしょう。そのように書き続ける日々のうちに、定められたある日ある時、ふっと死ぬるのです。
(私)
楽山は、美しい人間像を期待しているかもしれないが、今回のように、そうではない人を見ることのほうが、はるかに多い。だから私は、そういう傲慢に対しては、批判を手加減しません。私が、人に対して、激しく言っても、丁寧に言っても、神に対しては、いつも、反省ザルに過ぎません。言うべきと判断したことは言うのです。言わない人が多すぎるからです。
(私)
自らを見るべきです。自らの罪と悪と偽善を見るべきです。見たら、傷つき傷つけることを避けることなど出来ないことを知るでしょうし、社交の言葉よりも、インパクトのある言葉を欲しがるでしょう。真実は、人間にとって、うわべの善いところには形骸が多くて見えず、悪いところのほうに、その対極として、はるかに多く垣間見えてくる、という成り行きです。
 
(楽山)
>ゆるゆると、遠回しに、他者の言葉を借りて、人を侮辱してきた楽山です。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
人を猿よばわりしつつ、こういうことを書くのはよくないです。
 
(私)
私のは、毒舌ですが、楽山の遠回しのほうが、分かりにくく、温和に見える分、たちが悪いのです。殴られるより悪いことなのです。
 
(楽山)
それに先日は、私の名前を、不自由さんとか、安楽山とか変な呼び方をしてバカにしてた。
こうしてみると、人を侮辱するというのは、自分の姿を他に見てるだけのような気がします。
ちなみに、ヨシュアさんはエグゼルさんの名前を変にしたり、猿よばわりしてた。この点、stさんとヨシュアさんは同じです。
2019/2/26(火) 午前 6:05 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
馬鹿にしていたのではなく、怒っていたと言うこと。また、そういう書き方について、改める気はありません。丁寧に書いたのでは、話にならない相手だからです。特徴を読む人に伝えるための一種の比喩。優しい言葉は味気がないので無視されやすい。まことに、楽山の道徳は、本質とは関係のない、おしろいのような物だと思っています。
(私)
このように指摘されるくらいでないと、力がなくなるほど、無視する人が相手である。丁寧に言って伝わると思っているから、つまらない文章になる。楽山は、自分の文章をまともだと思っているようだが、むしろ、執拗な丁寧語は、意地の悪い執拗さと高慢を感じさせる。
 
(楽山)
>シャロームは、相手が低く出てくれば、さらに、さらに、舞い上がります。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20102535.html
これも、shalomさんというより、stさんご本人のことと思います。
shalomさんはどこでも誰に対しても、大体同じ態度です。
でも、stさんは大分ちがう。
 
(私)
シャロームに対しては、嘘が酷いから、そもそも信仰が嘘だし、私は一貫して厳しいと思います。シャロームは、誰に対しても、同じ偽善芝居をしています。楽山は、ねちねち細かいことを言ってくるクレーマーですが、いちばん大事なところで勘違いしています。だから、だんだん話にならなくなります。
 
 
(2019年02月27日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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