赦しが先?(4)
 
   楽山ブログのゲストブック:shalom
   
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   コメント欄、私のコメントは記事専用です。
 
 
(私)
テーマから、離れて、シャロームの自分勝手な妄想を批判しています。造語、作話、嘘の類ですが、シャロームは、楽山の味方を得て、上機嫌に舞い上がり、口が減らないようです。
 
(シャローム、楽山から引用)
「関わることはないと…そうですか。それも仕方ないですね。余計なこと言ってしまったようで失礼しました。」
(シャローム)
 少しも余計なことではありません。
とても大事なことです。でも私たちは神に赦され、愛されていることを頭で知っても、心に届かない現実があります。そのために人を赦し愛することができないことも事実なのです。その力が自分自身のうちにないのです。それでは神様からどんなに赦され愛されていると信じても無意味な虚しいことでしかないではありませんかと思うのも当然です。ですから信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです。
2019/2/26(火) 午後 11:29 [ shalom ]
 
(私)
神の愛が心に届かない現実だそうです。罪を認めず悔い改めないシャロームは、どうして、なぜ、キリスト者を自認しているのでしょう。
>信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです
白々しい嘘です。シャロームと楽山の共通点ですが、丁寧語は愛に繋がるとは限りません。二人の場合、相手を低く見て、侮辱する手段に過ぎません。読者には、殴られるより悪いことがあることを知ってほしいと思います。
 
(シャローム)
しかし、疲れてしまうのです。そして疲れると、自分は神に赦され愛されていると信じていると言いながら、人を赦し愛し、ありのままで受け容れ仲直りをすることもできない、私の信仰は偽りだ。あの人の信仰は偽りだと自分を裁き、互いに裁きあうようになってしまい、その結果、信仰を失ってしまことが多いのです。
 
(私)
キリスト者らしく罪を語っているように見せかけて、信仰は偽りだと批判者が裁くので、仲直りが出来ず、信仰を失うと、恐らく私に、当てつけています。こういう狡い暗示をするシャロームですが、楽山は、それでも、真に受けるのでしょう。
 
(シャローム)
何が問題かというと、神との和解、仲直りは信じて、神さまはこんな私をありのままで赦し愛しておられると信じながらも、自分自身との和解、仲直りができないと、神さまの赦しと愛が他の人へと流れることができないのです。なぜ神さまの赦しと愛を信じているのに、他の人を赦し愛することができないかの理由は自分を赦し愛し、自分をありのままで受け容れることができないからのようです。自分で自分を赦し愛し、受け容れるなんておかしいと思われるかもしれませんが、自他未分化状態ではこの気づきがとても難しいのです。それが例えば、投影というような様々な自己防衛機制となって表れるのです。このことに気づくのはそう簡単なことではないようです。
2019/2/26(火) 午後 11:30 [ shalom ]
 
(私)
すごい当てつけになっています。神の愛を信じてはいるが、仲直りが出来ないと言いながら、シャロームは自他未文化を自分に当てはめたことはないので、それは、自他未文化の相手が悪いと言っています。下劣なやり方で、自己正当化への言論を持って行く詭弁家のシャロームです。
 
(シャローム)
ですから人と人との和解、仲直りは人が作り出すことではなく、神の御業なのです。
 
(私)
このように、和解や仲直りの出来ない自分を正当化するために、神の御業に持ってゆきます。仲直りできないのは私にとっては明らかに私の罪なのですが、シャロームは神のせいにするのです。
 
(シャローム)
神のみわざが私たち間で和解、仲直りを生み出すのは、初めに神との和解に始まり、その次に神を信じた人とその人自身との関係が和解し、仲直りする必要があるのです。
そうして初めて神の赦しと愛が信じる人をとおして他の人に流れていくのです。とても回りくどい言葉を羅列していますが、
 
(私)
もっともらしいシャロームの詭弁に騙されないでください。シャロームが仲良くするのは、自分の賛同者だけです。悪い結果の総てを、批判者のせいにして、神と和解していないのだと決めつけています。シャロームは、罪を認めず悔い改めないのに、どうやって神と和解したのでしょう。いつも、成り立たないことを、すり込んでくるのがシャロームです。
 
(シャローム)
このことが分からないために、多くのクリスチャンの人が信仰生活に疲れて信仰を失ったり、教会に混乱、分裂が起こったり、異端に走ったり、挫折し、教会から離れてしまわれるのです。
私もその一人で、そのことが分からず随分回り道をし、自分だけではなく、多くの人を傷つけました。そのことを気付いた今でも他人事ではないのです。なぜ自分のことで悩んだり、他の人との関係で悩んだりするのか、その原因は他の人にあるのではなく、自分自身と和解できないことに原因があることが多いようです。それを私たちは自分に向けたり、他の人に向けてしまうことで苦しんでいるのです。
2019/2/26(火) 午後 11:31 [ shalom ]
 
(私)
シャロームは、他者を心配しているように見せかけて、自己中心に自己正当化しかしてこなかったのです。自分と和解するとは、どういうことでしょう。シャロームは、それを、私という言葉を使いながら、他者にだけ向けているのです。
(私)
シャロームは、我欲のままに、殆ど本能的に、信仰を捻じ曲げて固定してきたのです。ここでは、シャロームは、また、白々しい嘘を吐いています。恐ろしい詭弁です。反省というものを、全然する気がないので、辻褄の合わないことを、理屈めいた話にでっちあげているのです。ここまで悪質でも、楽山は見抜けずに真に受けてしまうのでしょう。
 
(シャローム)
私たちの心のからくりを解きほぐし、自由にしてくださるのは神の赦しと愛による他できないことだと痛感させられます。
 
(私)
このように、シャロームは、神を全面的に信じているように見せかけて、実は、悪いことは他者のせいにして、そういう自分が神を讃えているように、見せつけ、見せかけるのです。
 
(シャローム)
私が「stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。」と書いたのはstさんと自由さんに謝罪し、撤回し、削除すべきだと思います。
stさんの病的体質が変わることは難しいと書きましたが、それはstさんだけではなく、私自身のうちにもあることです。それは私と他の人との和解、仲直りを妨げている障害は私という自分と自分自身との和解、仲直りができていないことにあり、自分との和解を妨げている病的体質の気づきの難しさだということです。
 
(私)
私は、対立している人とは和解しません。する理由がありません。悪い奴は悪い奴、嫌な奴は嫌な奴なのです。それを、そのまま、罪として告白するのです。シャロームは、方便として、きれいごとを言っていますが、言っている内容に相当する言動は、全く見られたことがないのです。また、嘘を吐いています。
(私)
しかし、口で、謝罪と言ったので、楽山は、またしても、さらに、真に受けることでしょう。シャロームは、それを承知の上です。楽山へのサービスなのです。
(私)
申し訳ありませんでしたということをシャロームが言うこともありますが、全くの社交辞令だったと書いておきます。確認しておきますが、シャロームは、嘘を吐きますが、罪を認めない人です。詭弁と嘘も、ここまで来ると実に気持ち悪いです。
 
(シャローム)
このことを抜きにして私たちがどんなに仲直りをしようとしてもそれは出来ないと思うのです。
私の思いをつたない言葉と文字で書きあらわすのは難しいのですが、少しでも伝えることができればうれしいです。
2019/2/27(水) 午前 7:51 [ shalom ]
 
(私)
ここで、謙譲を見せかけています。私は、約7年間、シャロームを見てきました。彼の体質は、謙譲とは正反対の傲慢な権威主義です。と言っても、楽山は、ここを見て、シャロームを褒めるのでしょう。それも気持ち悪い仲間ぼめです。シャロームは、人に対しても、神に対しても、罪悪感を感じない人だから出来ることです。とても怖い人なのです。
 
(シャローム)
おはようございます。
 「日本教の社会学」の一章をまだ読み終わってはいませんが、
 日本教の問題点について触れられ、嫌な言葉ですが、「日本人にはわからない」と繰り返されていることを不快に感じながらお気づきだと思います。私が書いていることが日本教、日本教キリスト派の核心だと思いますがどうでしょうか。
 
(私)
シャロームがいったい何を書いてきたというのでしょう。今までの、どれもこれも、奔逸した思い付きの誇大的な豪語に過ぎないということを、私は書いてきました。
 
(シャローム)
私もまた日本教キリスト派のひとりにほかなりません。そこから解放し、自由を与え、名実ともにイエスキリストにある神の子としてくださり、その完成に向かって助け、導いておられる方がイエス様であることを信じていますが、私たちのこの世における人生はその旅路の道程だと思います。
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
 
(私)
日本教キリスト派など存在しないと思います。それは、キリスト教ではないです。シャロームがキリスト教徒でないことは確かですが、恐らく、シャロームの造語です。以前には、民主主義は、よくないから神主主義?、心身症というより霊心症?が分かりやすいなど、滑稽なだけで無意味な造語を、自慢げに書いてきたのです。ここまでを見て、異常な上機嫌に舞い上がっているとしか思えないシャロームを、それでも、楽山は、立派だと、受け入れるのでしょう。
 
(シャローム引用)
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
 (新約・ガラテヤ人への手紙5章13~17節)
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
 
(私)
最後に愛を説く聖句を引用して、箔を付けようとしています。シャロームの企みは、見え見えなのですが、楽山は、真に受けてきたので、引っ込みがつかなくて、これからも、一生、あの人は丁寧で、いい人だと、真に受けてゆくのでしょう。
 
(シャローム引用)
5:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
5:24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
 (新約・第一テサロニケ人への手紙5章23,24節)
2019/2/27(水) 午前 8:45 [ shalom ]
 
(私)
シャローム大好きそうな、「全くきよめて」「霊と心とからだとを完全に守って」「責められるところのない」「真実であられるから、このことをして下さる」という、完全言葉が並んでいます。神秘の絶大なる完全を、自分に当てはめるのが大好きだからです。
(私)
聖書は、霊と心を分けているようです。シャロームは、前に、信仰は、心のどこを探しても見つからない、と言っていました。分かっているつもりで、霊のことを言っていたのでしょう。
(私)
私は、どう言うかというと、聖書に書いてある、霊と、心の、具体的な区別がつきません、聖句であっても、分からないことが罪であっても、分からないものは分かりません、どちらも、人の中にあって、目に見えないものだから、分けて区別して見る能力が、私にはありません、と言って、このことは、分からない箱に入れておくのです。
 
(私)
見栄だけの、正直でない信仰が続くと、誇大妄想に至るようです。
 
(楽山)
こんばんは。
難しい文章ですけど、ありのままの自分を受け入れることが、他と良好な関係を築くことにつながるというのは分かる気はします。
 
(私)
そうして、楽山は、うわべだけの社交に努め、真実の追求を止めたのでしょう。
 
(楽山)
思い返してみれば、自分の場合も、ありのままの自分を受け入れるに従って、喧々諤々の議論をすることもなくなってきたと思うので。
2019/2/27(水) 午後 7:52 [ 楽山 (自由) ]
 
(私)
洞察力が鈍麻して、楽山は、深いところが見えなくなっただけなのです。
 
(楽山)
>削除すべきだと思います。
すいません。確認ですけど、「2019/2/26(火) 午前 10:10」の削除依頼と受け止めましたけど、それでよろしいでしょうか。
2019/2/27(水) 午後 7:53 [ 楽山 (自由) ]
 
(シャローム)
楽山(自由)さん こんばんは
「2019/2/26(火) 午前 10:10」の最後の私のstさんとの関わりについてのコメントは間違いであることを謝罪と撤回をしたうえで、そのあと私の考えを書きましたので削除せずにそのまま残してもいいのかなと思っています。
私はだれとの関わりについても言えますが、連れ合いや家族関係も含めて自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り、互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、基本的には不即不離でありたいと考えています。
shalom!
2019/2/27(水) 午後 9:48 [ shalom ]
 
(私)シャロームは、本か何かで仕入れた言葉を、よく吟味もせずに、盛んに使います。それ以外に手段も方法も持たないのでしょう。ここでは、それが「自他未文化」という言葉です。それを人に向けたり、一般の社会に向けたりしますが、シャロームは、真剣に自分に向けることだけは出来ない人です。
(私)
>自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り
このように、他者の言うことを気にしない、すなわち、他者を無視するための、正しい?理由を得たつもりなのです。それに楽山が呼応し、だまされて、ソウルメイトのように頼り、依存しあい、固まり、二人は自他未文化になっているのです。
(私)
>互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、
>基本的には不即不離でありたい
それで、他者を無視しながら、それで自立していると思い込み、尊重しているつもりの世辞だけで褒め合うことを善しとして、不即不離(つかず離れず)、実際は、人を人とも思わない傲慢な言動を、丁寧語と聖書語でごまかしているのです。
(私)
でも、不即不離といっても、自己中心の保身のために他なりませんから、二人同士の配慮は世辞の範囲に限られ、絆と呼べるものは何もなく、何の共感もなく、つかず離れず、言い換えれば、いい加減な、薄っぺらなものになっています。温もりも潤いもない、彼らの心のように、執着や強迫観念に近い、凝固して自壊か融解を運命づけられている様態です。
 
(私)
シャロームの言説は、子供だましのペテンです。しかし、人間は、どこかに子供の心を持っています。そのことは、悪いことではありませんが、残念なことに、そこに、つけ込む者がいる、ということです。
 
 
(2019年02月28日アップ、同日一部修正)
 
 
 
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