人間とは何か
 
   『人間とは何か』マーク・トウェイン
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html
   コメント欄より。タイムスタンプ省略。カッコは、引用が多いです。
   
   かなり前のコメント欄になります。私のコメントは、記事用です。
 
 
(私、前置き)
シャロームと楽山のご機嫌な世間話の乗りで信仰を語ってほしくないという感想です。シャロームの言説の偽善的な特徴が表れています。
(私)
シャロームと楽山には近づかないようにしてください。
シャロームは、約7年間見てきて、嘘吐きのカルトだと判断しています。
罪を認めず、悔い改めないのは、聖書の核心に反しており、キリスト者ではありません。

(私)
楽山は、硬派カルトから脱会したと言っていますが、揺り返しのように軟派カルトの宣伝をしています。
楽山が傾倒しているアドラー心理学については、ネットでも、学問か宗教かの議論があるようですが、私は、気に入らないことは全部無視してよい、という反省と成長を不要とするカルト宗教だと判断しています。

 
 
(シャローム)
パスカルだったでしょうか。人の心には空洞がある、その空洞を満たすことができるのは神でしかないと言ったそうです。
 聖書には人の心の空洞は神の住まいだと書かれています。
 
(私)
シャロームの心の空洞に、神は住んでいないと思います。根拠は、今まで示してきましたが、罪を認めない、悔い改めを必要としていない、というシャロームの言動は、神が住んでいたらできないことです。
 
(シャローム引用)
新約・第一コリ
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。
 
(私)
シャロームは、表れているのが愚かな言動ばかりなのに、知者を気取っている人です。
愚かなだけなら私もですが、救いがあるのです。シャロームは、さらに、偽善者だと、私は、ずっと言ってきました。二人は、まさに、とても空しい、よいしょごっこをしているようです。
 
(シャローム)
『人間機械論は宗教を否定するものだと考えてきたものだけど、こういう見方を知ると、ものごとはなんでもそう簡単に白黒つけられるものではないんだなあと思えてくる。ものごとはちょっと視点を変えれば、まったくちがって見えてくることもあるらしい。」
視点をどこに置くかが大切であるけど、確かな視点が人の心にはないということでしょうか。なぜなら人は神のような自存的な存在、有りてあるものではなく、有りて無き者だからでしょうか。
 
(私)
シャロームは、「有りて無き者」の自覚が見られず、この言葉を他者にのみ当てはめています。
シャロームが、人は・・、と言って貶すときには自分を除外していることが多いのです。
 
(楽山)
いま改めて考えてみると、人間機械論は宗教を否定するものというより、宗教を必要としないものなのかもしれません。
 進化論の本とかを読んでいると、人間とは何かを語るのに、神様を持ち出す必要は全然ないんだなあと思えてくるので。
 
(私)
学問に神を持ち出せば、説得力を失うからです。のみならず、宗教と信仰の問題にも、人が、これはそうだと知りえないところの、神の啓示と聖霊の導きを根拠として持ち出しているシャロームには全く説得力がありません。
(私)
しかし人間とは何かを語るのに、神を持ち出す必要はない、と言っているのは、神を信じる必要も感じず、不都合を反省する必要も感じていない楽山の決めつけです。
 
(シャローム)
ダーウィンによる進化論から人間とはなにかを語ると当然そうですね。
聖書は天地万物、人も神の創造であると証ししていますが、人が神の創造の御業を見て書いているわけではありませんね。
人間とは何かを問い続けずにはおられない人の心こそ、神によって神のかたちに造られたあかしだとも思われます。
 
(私)
そうして、シャロームは、カルト的無罪妄想によって、神の絶対に成り上がって、自説を語り続けているわけです。
 
(シャローム)
また人は自分を神のようなものとし、自分のかたちに似せて偶像を作ることも、神による創造のあかしだと思いますし、
 
(私)
偶像崇拝は、神による被造物であることを人が否定して、神を人が作る、人が自らを神とする、自分を神?の修正不要の不変に当てはめる、という、神への反逆なのです。シャロームは恐ろしいことを平気で言っています。
 
(シャローム)
なによりも被造物と長い歴史における神の啓示によって証しされていることですね。
 
(私)
このように、シャロームが、神の啓示を持ち出すとき、自らの解釈を絶対としていて、そこから曲解による自説によって、悔い改めず、罪を認めない、シャロームの訂正不能が生まれています
 
(シャローム)
人によって産みだされている宗教である偶像神の行き着くところがカルトで、その否定ではないでしょうか。
 
(私)
シャロームは、自分の解釈を偶像としています
私も、私の解釈は持っていますが、シャロームの悔い改めない妄想ほどには、キリスト教のスタンダートと違ってはいません。また、私は、私が感動すれば私の言説を改める修正可能という用意があります。その修正可能は、私の主張でもあります
 
(楽山)
ところで、shalomさんは、創造論を支持してると思っていいんでしょうか。
もしそうであれば、自分は進化論寄りなので、この点に関しては水と油みたいですね。
 
(私)
水と油でも、シャロームは、味方になると思えば、ご機嫌を取り、すり寄るのです。
 
(シャローム)
水と油を混ぜると乳化現象を起こして、
水も油も使い物にならないようですね(笑)
 
(私)
こういうときに、つまらない冗談を言うのも、シャロームの特徴です。その場と状況において、大事なことであっても、何も気にしていないのです。
 
(シャローム)
人による仮説「創造論」は支持していませんが、神の創造は信じています。聖書の証しの真実性に基づく信仰です。
 
(私)
シャロームは、また嘘を吐いています。その結果が、悔い改めない罪人、というシャロームなのですから。このように、あらゆるところで、シャロームの偽りは、言説の綻びとして表れます。
 
(この間、趣味的な話省略)
 
(シャローム)
さて人間は進化しているのでしょうか?退化しているのでしょうか?私は退化しているのではないかと感じています。電気がなければたちまち生きていけないかもしれませんし、モノや知識は増えましたが、自ら作った、築き上げた環境によって人間の心のモノ化が進んで、バベルの塔の崩壊の再来となるように思われますが、進化しているのでしょうか。
 
(私)
シャロームは、よく「モノ化」という言葉を使って、他者として人間世界をボロクソ節で貶してきました。そのくせ、彼自身は、他者を、人ではなくモノのように見なして、コメントを削除したり、平気で嘘を吐いたりしてきたのです。
ここで、また「モノ化」という言葉を当たり前のように使うのが、シャロームが、反省せず、訂正不能であることを示しています。「バベルの塔」も同様で、聖書語として使います。
 
(楽山)
ちなみに、中野信子著『サイコパス』『不倫』なども、上のwikiの引用部分のような立ち位置のようで、サイコパスや不倫する人などを善悪や優劣で裁くのではなく、理解し、共生する方法を模索するという論調のようでした。
 
(私)
裁かずに、罪悪感をいだかないサイコパスを理解し共生する方法が、今のところ見つかっていないから、犯罪行為を明らかにして犯罪者を裁くうえで、当然、善悪の判断があるわけです。
引用しただけでは賛同と見なされます。賛同だけではないなら、意見を書くべきです。気取りだけで中立や中庸を目指すと、無責任になってゆきます。
 
(楽山)
人はいつから人なのかという難しい問題に通じますね。
 受精したとき?
 母体から生まれ出たとき?
 胎児の脳が一定程度できたとき?
この辺りは、宗教、法律、医学、道徳、良心…いろいろな立ち位置から大議論になる。
 
(シャローム)
「進化論の「進化」は、変化のことであって、優劣や善悪などとは別」
 今、サンデーモーニングでAIによる自動運転の進化?、進歩?発展?でアメリカの仕事の47%がAI化され、人の職場が失われ、医師よりAI診断の方が正確などという報道されていました。ある女性は人がつくった便利なもので、人が困ってしまうことになるのではというコメントをしていました。
 幼児虐待、虐め、DV、長時間労働と過労死、広がるハラスメント、危険なあおり運転、無差別殺人など心のモノ化、教育の荒廃、政治の順法精神の欠落・・・などますますひどくなるばかりです。進化の退化現象の心のモノ化の表れではないでしょうか。
 
(私)
「モノ化」というキーワードで、興奮シャロームのボロクソ節が全開です。他者や社会をボロクソに言うが、自分の罪と偽善はお構いなしです。言うだけで、何も始まらないのです。強いて言うなら、シャロームは、自分と同じ信仰?を持て、と言いたいだけなのです。真に受けないでください。
 
(シャローム)
1.相対化
2.価値判断の中立化
3.善悪や優劣で裁かず理解し、共生する方法を模索
これらのことは対症療法を考えるにはきっと必要でしょう。
 
(私)
これらは対症療法に限られるでしょうか。楽山は、対症療法のことを言っていたのでしょうか。相対化も、中立化も、裁かず理解も、共生も、何も考えずに、自分の都合でコメントをことごとく削除してきたのが、シャロームであります。
 
(シャローム)
しかし、問題の本質を知ることにはあまり有効ではないと思います。やはり、「人が善悪を知る木の実を食べると死ぬ」という言葉の意味と「罪の支払う報酬は死である」という言葉を語られた方と向き合うことが必要だと私は考えています。
 
(私)
このように、分かっているつもりのシャロームは、聖書を持ち出してきますが、神やキリストと向き合うことと、彼のしてきたことが矛盾しており、実際は、聖書に真っ向から背いているのです。
 
(シャローム)
人によるグッド、ベターは生ける神のベストを常に排除、駆逐するのです。
 
(私)
そうとは限りませんね。シャロームが、いかに、人間の営みと人間性を嫌って、ボロクソに考えているかが表れています。
 
(シャローム)
私たちは自由をどのように行使するかは自由です。しかし、その結果を選ぶ自由はありませんね。
 
(私)
ほっとくと大変なことになりますよ、というシャロームの得意な「ね」付きの脅迫メッセージです。私としては、解決法を、シャロームにだけは求めてほしくないです。
 
(楽山)
テレビを見てると、いやなニュースが多くて、気が滅入りますね。
でも自分の周囲を見回してみると、いい人は多いし、微笑ましい出来事もちょいちょいある。
世の中の動きは知っておかなければならないだろうけど、やっぱ情報の取捨選択も大事だなとは思います。
 
(私)
シャロームとの、疑問と批判で突っ込むことのない社交のご機嫌取りを喜び、情報の選択と受け容れ先として、安楽なほうだけを選んでいる人もいます。真剣で重いテーマなのに、社交の歓談で真実を追求しているつもりなのは、反対意見抜きの偏った結論に導く談合のようなものです。
 
(楽山)
> 1.相対化
> 2.価値判断の中立化
> 3.善悪や優劣で裁かず理解し、共生する方法を模索
1と3はいいと思うけど、2はちょっと違うかなとは思います。
 自分は、公平中立とかはあまり信じてないし、人にはそんなことは無理だろうと思ってるので…。だから、判断が公平中立とはいえなくとも、その価値判断の立ち位置がある程度明らかになってるなら、それでいいという感じです。
 
(私)
そう言いながら、当然あるべき対立をことごとく避けて、シャロームに、自説披露の機会と場を与えているのが楽山なのです。それでいいのは趣味の同好会か社交クラブだけなのです。
 
(シャローム)
進化論は変化論であるべきですね。
進化は良いことだというイメージがありますが、退化も含めた変化論なら、同感ですね。
 
(私)
専門家でもないのに、進化を変化に置き換えて説明もなしに、何を言い得たつもりなのでしょう。
シャロームは、化学反応か化け物のように、恵みを受けたとでも言いたいのでしょうか。
 
(シャローム)
「テレビを見てると、いやなニュースが多くて、気が滅入りますね。
でも自分の周囲を見回してみると、いい人は多いし、微笑ましい出来事もちょいちょいある。
 世の中の動きは知っておかなければならないだろうけど、やっぱ情報の取捨選択も大事だなとは思います。」
 
(私)
強制力で、情報の取捨選択をしてきたのが、コメント削除魔のシャロームですが、
 
(シャローム)
ひとりひとりと直接顔を合わせて話すと、誰もが良い人で、特に悪意のある人はあまりいないのですが、
 
(私)
心にもない多幸的なことを言っています。今までのシャロームの偽善の言動が矛盾しているからです。ボロクソ節に表れているように、根底に、根深い怨念による悪意があり、ルサンチマン(弱者に募る怨念)を、丁寧語と聖書語で隠しているのがシャロームなのです
 
(シャローム)
からだには良い食事、心には良い情報が必要だとおもいます。
 
(私)
いつも、都合の良い情報、つまり、ご機嫌取りの快楽だけを欲しがって、その毒によって、削除魔そして決して悔い改めない信仰?の教祖となっているシャロームです。
 
シャロームと楽山には近づかないようにしてください。
シャロームは、約7年間見てきて、嘘吐きのカルトだと判断しています。
罪を認めず、悔い改めないのは、聖書の核心に反しており、キリスト者ではありません。
 
楽山は、硬派カルトから脱会したと言っていますが、今は、軟派カルトの宣伝をしています。
楽山が傾倒しているアドラー心理学については、ネットでも、学問か宗教かの議論があるようですが、私は、気に入らないことは全部無視してよい、という反省と成長を不要とするカルト宗教だと判断しています。
 
 
(2019年03月04日アップ、同日一部修正)
 
綻び(ほころび)
貶す(けなす)
 
 
 
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