詭弁と祈り
 
   信仰と祈り
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28879578.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームがキリスト者ではないということが、いくつものシャロームの記事によって明らかにされてもなお、性懲りもなく、シャロームは、また、記事をアップしています。そして、何とか、悔い改めることのない自分が救われるような文言を、そんな言葉はないのですが、それらしく見せかけられそうな御言葉を聖書に探して、罪と偽善を認めて悔い改めるのではなく、虚しい詭弁の正当化を投げてくるのです。
 
>今日の聖書のみ言葉です。

「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。
すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、
 神はそれを聞きいれて下さるということである。」
(新約・ヨハネの第一の手紙5章14節)

 
何でも叶えてくれる神、とでも、信じているのでしょうか。
シャロームの信じているところの神のみ旨は、罪を認めないとか悔い改めないとかいうことなのでしょうか。それはキリスト信仰ではない。
 

信仰には祈りはつきものです。
なぜなら信じる方が天地万物の創造者で、
命と人格の根源であられる神だからです。
ですから祈りは単なる気休めでも、ひとり言でもありません。

 
つきものではなく、祈りは、人から神への唯一の音信として、信仰の本質です。シャロームは、祈ったのでしょうか。罪を認めず、悔い改めず、嘘は吐き放題の偽善者で、裏切りの心を抱えて、何をどれだけ隠して祈ったのでしょう。
 

祈りのない信仰は偶像信仰か、死んだ信仰でしょう。
神は私たちの祈りを聴いてくださる方です。

 
そういえば、シャロームから、こう祈りましたという話を聞いたことがありません。偽善を隠してキリスト者のふりをしてきたシャロームが、祈りの記事を書いて、何を言いたいのでしょう。祈らないことを偶像崇拝か死んだ信仰と言うのは、シャロームのボロクソ節です
 

多くの人が初詣に行かれ、神前で祈り、
新たな気持ちで新しい歩みを始められました。

 
どうしたことでしょう。初詣、神前でとは、キリスト教の話ではなかったのでしょうか。シャロームは、神道に宗旨替えしたのでしょうか。神道がどうこうという話ではなく、聖句を引用しておきながら、初詣とは、後で、キリスト者が初詣してはいけないか、とでも言うつもりでしょうか。
 
キリスト者は、神社に行ってはいけないということはないでしょうが、キリスト者は、神に祈るのに、詣でる必要はないのです。生活の場、いかなる場でも、祈ることが出来るからです。
 

しかし、私たちの祈りが、神に対する信頼によってなされることと、
祈った後、私たちの問題を神のみ手にゆだねなければなりません。

 
シャロームの詭弁です。祈った後、問題を神の御手に委ねなければならないと言っていますが、神に任せて、自分は何もしなくてよいのでしょうか。できることをしなくてよいのでしょうか。できることを全くしようとしないシャロームの自己正当化ではないでしょうか。
 
あるいは、神に任せると言って自分でコメントをせっせと削除したことを含めて、悔い改めなかった自分を、またしても正当化したいのでしょうか。それが、また、神の怒りを買うと思わないとは、キリスト信仰の節操を、まるで弁えないシャロームのようです。
 

私たちはどのようにしたら、
神に対する信頼をもって祈ることができるでしょうか。

 
シャロームが、神に信頼して正直に祈っているなら、罪は悔い改めなくても赦される、などということは、決して言わないはずです
 

子供が親に対して、何か願い事をする時、
もし親から責められるようなことをしていたり、思いを抱いていたりすれば、
決して親に願い事をしたりできないでしょう。
また、願い事をしても聞いてもらえるとは思えないでしょう。

 
シャロームは、神から責められるような嘘と罪と偽善の商人のようなものです。つまり、嘘を吐き、罪を犯し、偽善を働くだけでなく、それを隠して、盛んに讃美言葉を書き込んで、自己正当化という願い事だけを出っ放しにして、売り込もうとしてきたのです。
 

ですから、私たちが祈るときも、責められるようなことがあれば、
はじめに神ご自身との関係を正す必要があります。

 
シャロームは、自らの罪と偽善を悔い改めもしないで、何を説教したいのでしょう。神との関係をぶっ壊してきたのは、シャローム自身であります。
 

イエスが十字架の血潮によって、その罪をあがない、
赦しを与えてくださっていることを信じなければならないのです。
私たちが真心から罪を悔い改め、イエスを信じるとき、
聖霊さまが私たちの心に平安を与え、神に対する確信を与えてくださいます。

 
それは、罪を悔い改めた信仰者に起こることです。罪と偽善を続けながら、平気で嘘を吐いて、真心の代わりに、せせら笑いを込めて、赦しが与えられると、信じていると、何度、唱えても、背教が重ねられるだけです。
 
本当に悔い改める気があるなら、悔い改める前と後で変わるものがあります。それは、あらゆる言動にも表れます。シャロームが罪を認めて悔い改めたかどうかを、神は容易く見抜かれるでしょう。そして、人も、その経過と結果によって、分かる場合があります。言葉だけ整えても、無駄なのです。シャロームは、見られている。
 

この平安と確信があるとき、私たちの祈りはいつでも、聞き入れられるのです。
それが「神の御旨に従って願い求めるなら」という意味です。

 
神の与える平安は、神の御旨に従うことの結果であって、その意味そのものではありません。シャロームが、キリスト信仰とは全く別の妄想によって、平安と確信を持つとき、シャロームの祈りは、神の御旨に従うのではなく、神へのさらなる背教です。また白々しい詭弁を弄しています。
 

ヨハネはその手紙で次のように書き記しています。
「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、
 私たちは神に対して確信を持つことができる。」
(新約・ヨハネの第1の手紙3章21節)

 
シャロームは、罪と偽善の背教を重ねて、心に責められることで満ちています。ゆえに、シャロームは、神に対して確信など持てず、あるのは妄想だけであります。
 
(同3:22)そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。
 
自己中心の妄想に頼る者は、偽善の報いだけが返ってくるでしょう。シャロームは、聖句を妄想に変える背教の偽善者です。
 

私たちはいつでもどんなときでも遠慮なく、神に祈ることができます。
神はなによりも私たちの心から罪をとりのぞき、ご自分との交わりに、
私たちを導くために働いてくださいます。

 
その導きを拒んで、反省もせず、悔い改めず、平気で嘘を吐き、偽善を働いてきたのがシャロームです。罪人として正直に告白する意志がない罪は取り除かれることはありません。したがって、導きは、神との交わりではなく、罪と偽善の報いに向かうだけです。
 
懲りない偽善者シャローム、また、神の導きを語るに、詭弁を弄しています。
 

私たちの願い、祈りが少しも聞かれないように思われることもよくあります。
しかし、神はどのような祈りをも、必ず聴いておられ、
祈る人の最善をいつもしてくださいます。

 
神の前に、不正直で、人に平気で嘘を吐くシャロームが、どのような祈りをも神が聴かれ最善をしてくれると語るなら、必ずというほどに、自己正当化の詭弁だけが、神に聞かれています。シャロームが祈れば祈るだけ、神の前に、また、嘘を吐くことになるのです。敬虔を失って、ブリキのような傲慢の結果が言動に表れています。
 

わたしたちが目に見える状況や環境から目を離し、
目に見えない神に目が向けられ、心がひらかれるならば、
私たちは自分の願いどおりでなくても、一番良いことを、
私たちのためにしてくださる神の祈りに対する答えを
見出すことができるでしょう。

 
恐ろしい詭弁です。祈りに際して、自分の現状から目を離していいと言っています。祈りは、信仰生活の様々な事柄について反省する場であります。現実から目を離していいわけはないのです。シャロームの祈りに対する神の答えは、シャロームの肝を、絞り、震わせ、凍らせることになるでしょう。
 
私は、今、恐れのために震え上がりそうです。シャロームは、ちりと灰の中で悔いても、ヨブと違って、はるかに足りないだろう。神は恐るべきかな。背教と偽善の者が、報いとして受け取るのは、神からと分かるような超常の力によるものとは限らず、現実において、大方は自業自得と見なされるでしょう。
 

ヨハネは手紙の続きにこう書いています。
「そして、わたしたちが願い求めることは、
なんでも聞きいれて下さるとわかれば、
 神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」
(ヨハネの第1の手紙5章14節)

 
シャロームの願いを、今まで、神は何でも聞き入れてくださったでしょうか、叶えられたでしょうか。悔い改めに導かれるはずなのに、叶えられる代わりに、表れているのは、悔い改めず、嘘を吐き、罪と偽善を重ねて、今もこうして、神と人の前で、欺きを企むシャロームという現実だけなのです
 
つまり、シャロームは、神に従う敬虔においては、何も願い求めはしなかった、という結果だけが続いているのです。シャロームは、罪人として、へりくだり、砕かれた魂からの、救いの祈りによって表れる敬虔な態度など持っておらず、へりくだることや、砕かれることを、最も嫌う傲慢さを持つ偽善者です。
 
シャロームと楽山には近づかないようにしてください。
シャロームは、約7年間見てきて、嘘吐きのカルトだと判断しています。
罪を認めず、悔い改めないのは、聖書の核心に反しており、キリスト者ではありません。
 
 
(2019年03月05日アップ)
 
 
 
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