不可知の神
 
 
不可知の神と言えば
グノーシス派とかを知っている人もいるのだろう。
私は、よく知らないが。
 
検索してみると
 
ヨーロッパの中世ではグノーシス派などがgnosis グノーシスによって神の本体を直接に知ることができる、としたのに対して、ローマ・カトリック教会では、神の存在は、人間理性にもともと備わる「自然の光」によって知られるが、神の本体そのものは知られない、神は人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に対面できるのは別の世においてである、とした[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96
 
とある。私は、ローマ・カトリックのほうが正しいと思う。
 
私が、不可知の神というのは、単純に
神を知りうるかと自らに問えば
全知全能の神を、全知でも全能でもない人が知りうるはずがない
という自問自答によって神を不可知と言っている。
 
偽善者は、神など信じていないが、
ペテン師のカルトらしく、
利用できるものはなんでも利用するので、
神の啓示とか、聖霊の導きとかを挙げて
自らの嘘っぱちによって、神を知りうる根拠としているが
その言説も、その言動も、嘘と罪と偽善だらけである。
 
しかも、その態度は、いつも尊大であり、
一見、丁寧で柔和で優しく見える社交の態度は
味方を増やすための、世辞であり、
さらに、これらもまた、嘘であることが分かってきた。
信仰という真剣な真実追求のためには邪魔にしかならない。
 
しかも、偽善者は、
罪を認めないし、悔い改める気が、まるでなく、
反省という思慮も、罪悪感という謙虚な気持ちも、皆無であり、
思慮において、聖書の言葉を振り回し、
感情において、大仰に神をありがたがるが、
その言葉は、聖書や教理から拾ってきた実感のない超常の言葉だけで、
それで、感謝したことにして、笑い、
その実、相手よりも勝っていると嘲笑うパリサイ人に酷似している。
 
偽善のカルトは、
人間性や、個人の人生に無関心であり、
言い張る言説は、奇跡とか超常のことばかりで、
人間が実感として受け取れないものばかりであり、
しばらく聞いていると、うんざりしてくるものばかりである。
 
 
信仰は、個人に生きる気持ちと人間らしさを与えるのであって、
人間離れの超能力を約束するものではない。
 
超常に興味があるだけではキリスト者にはなれない。
 
聖書を通じて、キリストに出会い、
キリストの洞察力に感心して
キリストの慈しみに感動して
癒しと救いに導かれた導かれた聖書の中の人々と同じように
今の人間も癒され救われて
信仰者になってゆくのである。
 
決して神の真理を理解して信仰を持つのではない。
 
神は変わることがない。
 
人間も、不完全で罪深いことは、変わりようがない。
だから救いが必要だから、悔い改めて罪を赦される必要があり、
それは信仰者になってからも変わるものではない。
そうすることによって、完全にはならないが、
成長することを期するのが人間である。
 
 
偽善者の言は、様々あるが、
罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくてよいとか、
悔い改めは神から与えられるとか、
オートマチックに、救いが成就するような偽善の詭弁は、
ただただ人格を怠慢にして堕落させ、人間を神から遠ざけるだけである。
 
また、こうすれば救われ、こうしないと滅びる、などと
行為義認によって、脅迫する向きは、信仰を恐怖に変えるだろう。
 
これらは、元々与えられてあるところの人間の良心や
思考や感性を奪って人を無能に導き、貶めたうえで、隷属を強いるのである。
 
偽善者の尊大さは
垣間見られただけでも悍ましい姿を表すが、
普段は、柔和な信仰者を装っている。
彼らは、自分に起こる不祥事に、完全に不感不応でありうるので、
何も気にしていないし、
なおも、繰り返し勧め、言い張り、迫るだろう。
 
彼ら偽善のペテン師は、擦りこみと煽りと洗脳のプロであり、
受け入れただけでも、その口車は危険である。
言うことに共感できないときは、
大仰な態度や豪語が目立つかどうかに、十分、注意して、
見つけたら、離れ、かつ、情報を敷衍するべきである。
 
信仰は、個人の人間としての体験上、
人間的な、思慮と情緒を促進する。
その逆は、カルトと考えるべきである。
 
 
人間は不完全なのだから決して訂正不能になってはいけない。
そのために、善かれ悪しかれ、出くわしたことや物に対して
無視するのではなく、時には悲しんだり、考えたりすることが大切で、
そこからの立ち直りを与えるのがキリストの愛である。
 
神は不可知であり、
敬虔なる人々はそのことを知っている。
それゆえ人間の気持ちや思慮を大切にする。
不可知の神からの
人間的な温もりと潤いに満ちた救いの導きを見過ごさないためである。
 
 
シャロームと楽山には近づかないようにしてください。
シャロームは、約7年間見てきて、嘘吐きの軟派カルトだと判断しています。
罪を認めず、悔い改めないのは、聖書の核心に反しており、キリスト者ではありません。
楽山は、アドラー心理学と言っていますが、気に入らないことを無視する教えであり、
実体はアドラー教と言ったほうがよいような軟派カルトだと判断しています。
 
 
(2019年03月06日アップ)
(2019年03月07日、一部修正)
 
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
敷衍(ふえん)≒ 広めること。
擦りこみ(すりこみ)
煽り(あおり)
 
 
 
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