求道と信仰
 
 
求道者は
心が動いて信仰に目覚め
キリスト者になります。
 
キリスト者になったら
悟ったからと
心を固定してよいはずはありません。
 
心を動かしてくれるものによって
信仰は人を動かします。
 
一般には感動と呼ばれますが
心に感じ
心が動く
ということなしに信仰は進みません。
 
信仰に導くのも
信仰を支えるのも
同じ働きが心に作用するからです。
 
いつも感動していなさい
ということではありません。
 
不変でなければならない
と思わなくてよいということです。
 
そこに信仰による心の解放があり自由があるのです。
その解放と自由のうちに信仰はあるのです。
つまり信仰と
心の解放と自由は
一体として人を動かし生かします。
 
その解放と自由以外を強いるものがあるなら
それは信仰ではありません。
 
悲しみや苦しみなど
様々なことで心は揺さぶられます。
そのときに
信仰者は祈ることで
耐え忍ぶことを学びます。
 
その学びは
義務教育のように
言葉で教えられるものではありません。
 
その学習のプロセスこそ
信仰が心を動かす時と所なのです。
 
揺さぶられ
揺れ動き
心の温度と湿度の変化を伴いながら
新しい道に導かれてゆくのです。
 
だから信仰の悟りを
静的な資産と考えるのではなく
動的な賜物として受け取るべきなのです。
 
時と所によって新しく生まれる信仰のあり方を
人間の浅知恵で動かない境地にしてしまわないように
 
人が誇るべき何ものも持たないところに
キリストの負いやすいくびきは導くためにかけられ
キリストの軽い荷は救われるために用意されています。
 
キリストの生涯は激動でした。
それゆえに癒しと導きと救いになりました。
 
私たち信仰者を導く御手が
私たちの心に
動かないことを使役するはずはないのです。
 
キリスト者として
歩いていても、座っていても、立っていても、
ベッド上であっても、見かけはどうであれ、
絶えることなく、終わりの時まで、
生きているために心の活性を祈り求めてほしいと思います。
 
 

 
気に入らないことを無視することの最も大きな災いは、
自分の欠点と自分が与える害悪を自覚しないために、
それらを克服できないまま一生の終わりを迎えることだ。
 
 
(2019年03月27日アップ)
 
使役(しえき)≒ (何らかのことを)させること。
 
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