臭い芝居
愛させてくれる人
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41518165.html
楽山のブログ
胡散臭い、臭い芝居、これが楽山の好む文章でしょうか。
引用はじめ
「
少し前のことだけど、
とあるブログに、
愛させてくれることについて
感謝の言葉が書かれてあった。
これは本当だよなあと思う。
愛そうにも、
愛させてくれないことには
どうにもならなかったりするし、
そう考えてみると、
愛させてくれる人には、
どんなに感謝しても、
感謝し足りないくらいかも…。
なーんて、
書いてみたけど、
愛がどうこう言うのは、
やっぱり照れ臭いもんだな。
」
引用終わり
曖昧言葉としては
「だよなあ」「たりするし」「くらいかも…」「なーんて」「もんだな」
最後には、なんちゃって、とでも言いたいのでしょうか。
これらは、内容、つまり、何が言いたいかを、ぼかしてしまうので、
何が言いたいのか分からない、書く必要があったのか、ということになります。
性愛か欲求不満の記事とも受け取られそうな気がします。
>
とあるブログに、
愛させてくれることについて
感謝の言葉が書かれてあった。
<
なぜ、引用しないのでしょう。
「愛させてくれてありがとう」で検索してみると、
性愛についての記事や、よく知らない宗教の記事もあるようです。
>
愛そうにも、
愛させてくれないことには
どうにもならなかったりするし、
<
そうでしょうか。性愛に限らず、
愛させてくれるかどうか、はっきり分かることなのでしょうか。
大事なことが抜けているのです。
愛一般にも言えることとして、
「愛する対象がいなければ、愛は存在しない。」
http://www.john-mary.com/2017/11/24/john-116/
ということなのです。
つまるところ、愛させてくれる、ということは、
愛する対象がいる、ということなのです。
感謝の言葉とは、
いてくれてありがとう、に他ならないのです。
愛する対象がいてくれれば、
愛させてくれなければ、などということではなく
愛するために、心掛けたり、用意したりすることが生まれてくるでしょう。
愛さない、愛せないことを、そして、愛されないことさえも、
愛させてくれないからだ、どうにもならない、
と文句を言っているような文章になってしまっています。
>
なーんて、
書いてみたけど、
愛がどうこう言うのは、
やっぱり照れ臭いもんだな。
<
照れ臭いと言いながら、何を書き得たと思っているのでしょう。
書く目的、書く意義、などは考えたのでしょうか。
徒然なるままに、心に浮かんだことを書いた、といっても、
愛一般なのか、性愛なのか、くらいは誤解されないような書き方はあるでしょう。
ああでもない、こうでもない、
という曖昧さで
読者のことを考えないで書くとこうなる
という無頓着の例でしょう。
読まれることを意識しない、
嫌なことは気にしない、忘れる、無視する
という自己中心のアドラー教を楽山のように信じ続けると
こうなりますという例でもあるでしょう。
ひょっとしたら、
一度も愛されたことのない、あるいは、愛したことのない人が、
愛について書こうとすると、こうなるという例なのかもしれません。
※
キリスト信仰においては、
私たち信仰者が、愛される対象であり、同時に、愛する主体でもあります。
同時に
キリスト信仰においては、
キリストが、愛する主体であり、愛される対象でもあります。
信仰は双方向であります。
信仰という愛は、ときに、エロスのように情熱的です。
一方的に、神に愛され、神に恵まれ、奇跡で守られる、
などという、
シャロームの信仰のようなものは、存在しません。
人間同士の愛も、双方向なのでしょう。
信仰と、人の愛の違いの一つは、
愛されることが最初にあり、気づくことだということでしょう。
しかも、命を捧げるほどに、
キリストの愛は、裏切ることがないということでしょう。
その愛は、十字架によって示され、
私たち信仰者それぞれの人生において示されるものなのでしょう。
信仰者も、不変の悟りの境地など持っていませんから、
いろいろなことがあり、
揺さぶられたり、罪によって揺らいだり、不当に振り回されたりしますが、
信仰と、人の愛の大きな違いとして
キリスト信仰においては、何があっても
いつも主のもとに帰る道は用意されているのですから
祈ることを忘れてはいけないということです。
私たちは、結論にはいません。いつも、経過しています。
私たちは、本当の結末を、結果を、まだ知りません。
私たちは、地上では、ずっと道の途中です。
結論は、神にお任せして、
一人一人違うところの、今、出来ることをするのが信仰者です。
ときに、できれば、情熱的に。
※
「令和」元ネタは後漢・安帝の腐敗政治を嘆く内容
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28942562.html
新元号「令和」選定に懸念と疑念
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28939486.html
by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
策略をもって、人を誤った信仰に誘導してきたシャロームは、
さらに、やけ気味に、妄想的、肥大的、誇大的になって、知識人気取りで、
「令和」の言葉の起源だけに執着して、万事を一事で語れると思っているようです。
策略で定められたと言い、
今度は、腐敗政治を嘆く内容だという記事を転載して、
決めつけから別の決めつけへ、右往左往しているようです。
学者でも政治家でもないのに、悲惨です。
泣くことも、嘆くことも、悲しむことも出来ないシャロームは、
自分で調べることも出来ないことについて、悪口を言うためだけに
言葉をほじくり返すしかなくて、起源についての記事を漁(あさ)っていますが、
日本の政治と社会と宗教について、ボロクソに言って自己満悦するだけなのです。
全能感で訂正不能のシャロームは、自分はインテリだから知性で語れると思い上がって、
少しでも良くしようという意志さえ持てずに、カルトの宿命を辿(たど)っています。
(2019年04月07日アップ、同日一部修正)
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
コメント