自己中、ときに
   主観と客観
   前の記事「時と風」との関連で思い出したこと
 
 
昔、夏、台風の夜、
通りに出ると強い風が吹いていて
むしろ、吹かれていると、心地よい。
 
しかし、この風は、別のところで、
別の人や家を壊しているかもしれない。
でも、今、自分にだけ、気持ちよいのだ。
 
自己中に風を楽しんでいた次の瞬間、
台風は、交差点で舞い上がらせたトタン板を
目にも止まらぬ勢いで私に向かって飛ばしてきた。
 
私は全く動けず、避けられなかった。
トタン板は目の前できわどく逸れて行った。
・・あっという間もない・・何もできなかった。
 
心地よさの次の瞬間
死ぬ目に遭わせてくれる風
 
それ以降
台風の日に外に出ることは極力しない。
 
 
時が過ぎる、
風が通り過ぎる、
いずれも人間は自己中心の感覚で受け取っている。
 
時にも風にも善悪はない。
良いときは、悪い時の種に
つまり遠因になっているかもしれない。
 
時と風だけではない。
日常いろいろなものを感じるけれど
大方、自己中に受け取っている。
多くは良い意味に。
 
時、風、音、光、闇、色、あらゆる形と動きと出来事
単純に受け取っているこれらは
個人的な受け取り方や、聖書的意味付けをしたとしても
人によって、ときに優しく、ときに残酷だ。
 
そこで、右往左往することになる私たち、
動じることが悪いのではなく、
動じないではおれない物事に対して
動じないつもりでいることが罪を増幅するだろう。
 
しっぺ返しを食らわぬように、ときに
良いと思うものも、どこかで、誰かを苦しめている
くらいは考えられるようにしたい。
 
 
最近、私は、体のあちこちが痛い。
痛みは主観だが、私個人にとって具体的な痛覚だ。
悔いることは多いけれど、
気の持ちようで、どうにかなるものではない。
 
関わってくる総ての物事を主観的に受け取っているが
主観と客観は区別できないこともあるだろう
ということを知っておくことが必要だが
いかなる宗教や無宗教にかかわらず
区別していない自分を責めるよりも
区別しないまま過ごしている己の不完全さを思うための
切っ掛けが、ときに必要なのかもしれない。
 
 
(2019年04月15日アップ)
 
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