死を利用する者
 
   「死を超えた生命復活の眼差し」・・山本七平氏夫人れい子さん
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28958858.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、他者の信仰を讃えるのだからいいだろうと思っているかもしれませんが、今までの言動を考えるならば、シャロームは、決して、神を誉めている場合でも、他者の信仰を誉めている場合でもないのです。
 
シャロームは、神をべた褒めして、自らを正当化するために、他者の死を利用しているのです。
 
罪を悔い改めることのないシャロームは、自己正当化のために、悔い改めは神が与えると言って責任を神に転嫁しました。
 
罪に罪を重ね、背きに背きを重ねてきたシャロームは、それを打ち消したいのでしょうか。しかし、他者の死の有り様を引用して、神を讃美することで、自らの背きをごまかすことなど出来ません。
 
今に始まったことではありません。他者を利用してでも、神を讃美しまくることで、自分はこんなに熱心な信徒だと思わせたいのです。シャロームは、そういう人です。
 
シャロームが、シャローム自身の背教の問題を、スコーンと脇へ置いて、無視していることを忘れてはいけません。シャロームのように、自分の問題に向き合うことなく、他者の死を利用してまで神を讃美して、背教をごまかすことは、キリスト者なら、決して出来ないことです。
 
シャロームは、キリスト者ではありません。
 
>最後に山本七平氏夫人れい子さんの「死を超えた生命復活の眼差し」を紹介します。
>死を越えた生命復活の眼差し・・・・おわりに
>十二月10日の早朝。
>主人は、あれほどもう一度行きたかったエルサレムに、
>永遠なる痛みも苦しみもないまことのエルサレムへと旅立っていったのです。
 
前の記事に
 
>平成三年十二月十日午前八時半、山本七平氏は天に召されました。
 
とあり、
 
>主人の願望で、がんセンターへ解剖をお願いしてあったので、すぐに連絡しました。
>天国へのいでたちは、
 
とも書いてあるように、
エルサレムへ旅行したのではなく、天国へ旅立ったということです。
 

天国へのいでたちは、やはり、彼の大好きなユニホーム、聖地旅行に行くときに毎回着た、
オリーブ色のジャンパーに徳利セーター、グレーのズボン。
これを着るとたちまち、遠足前の小学生の顔になりました。
今度は皆をどこに案内しようかなあ、あそこにも、ここにもと考えて、
すり切れた聖地の地図を眺めるのが最高の楽しみのひとときでした。

 
故人は、聖地エルサレムへ旅行したことがある、ということです。
 

彼はなんの肩書もなく、「僕は出版社の親爺だよ」
作家、評論家といわれるのを嫌い、「山本書店主」が、彼の唯一の呼ばれ方でした。
「肩書なんて、どうだっていいんだ。男は内容で勝負だよね」
それが主人の口癖でした。
主人の本が東大で教科書に使われたことを知ったとき、
「へぇ!僕のような、なんの肩書もないやつの本で勉強していいのかな」
主人はそういって、うれしそうな、恥ずかしそうな顔をしたのを覚えています。

 
シャロームは、故人が、いかに信仰の熱い人であるかを讃えています。
シャロームは、こういうやり方で、自らの背教を薄めようとするのですが、自らの罪を悔い改めることなく、罪を赦されることはないのです。
 

「七十を過ぎたら、ゆっくりしよう。
世界中の美術館を回ったり、音楽会に行ったり、好きなことをしよう」
自分でそういっていた矢先、夫はこの不治の病に倒れたのでした。
この闘病の一年、主人は今までの多忙な日々と変わり、本当に良き父親であり、
わたしにとっては、よき夫でありました。
また、一日一日が貴重でありましたし、彼がモットーとしたまさに「一日一生」の日々でした。

 
シャロームは、死が迫ったとき、いったい、どうやって信仰のあかしを立てるつもりなのでしょう。
今まで、シャロームは、ずっと平気で、ごまかしだけに生きてきたのです。
 

神は主人を天にお召しになる前に、この準備の日々をお与えになったと思われます。
神をよりいっそう深く信じ、神にすべてをゆだね、神と語る時が与えられたのです。

 
シャロームは、神と語れるのでしょうか。神に対して、同じようなごまかしが通用するとでも思っているのでしょうか。他者の信仰を誉めている場合ではないのですが。
 

それは、主人の自叙伝にも書かれてありますように、
「静かなる細き声」に、深く導かれての日々でした。
主人との別れの祈りは、息子に頼みました。
わたしは彼がどのようなことを祈ったか、覚えていませんが、
そばにいらした看護婦さんがこのことを覚えていて、大変感動しましたと言われました。

 
シャロームは、「静かなる細き声」を全く無視して、導きを無視して、神に背く日々でした。いったい、どんな祈りが可能になるでしょうか。大変な偽善を覚えられることになるでしょう。
 

そのあと、彼の遺体はがんセンターへ。
それにしても、神さまは、六十九年間、主人を生かされましたけれども、苦難の多い人生でした。
フィリピン野戦での極限状態、その後遺症としての数々の病、失職。
彼の血と汗の結晶としてつくられた本や、家、家財、アルバムなどの思い出の品の数々が
火災によって、一瞬にして灰となった不慮の災難、
そして幼い娘二人を含む、愛する人々との死別がありました。
主人は、それに真正面から立ち向かいました。
あの火事のさなか、燃え落ちる家を見つめて、「転んだら起きればいいんだ」と叫んだ勇姿。

 
故人の苦労話をして、また前には、自分の苦労話をして、背教の偽善をごまかしてきたのが、シャロームです。私が記事に書いてきたように、キリスト者なら出来ないような嘘を平気で吐いてきたのです。シャロームは、キリスト者ではありません。
 

そして、がん告知を察したとき、
「感謝だよなあ、この四十年は、神に感謝する年月だった」と独白した人!
彼の最後の闘病生活は、今までの人生の総決算であり、
まさしく、「よく生きた人が、よく死ねる人」を地で行っていたのです。
主人の最期を察し、死を越えて、「僕の魂はガンには決して負けない」といいはなった
闘魂と勝利の人生のあかしを、カメラに収めました。
昨年、ある新聞社の記者が、主人の闘病を取材に来られたとき、
数多くの写真のなかから、わたしの写した、その亡くなる三日前の最後の姿をピックアップされ、
「よくぞ写されましたね」といわれたのでした。
わたしはなんとかして、主人の内面から出る、痛々しくも勇ましい叫びを撮りたかったのです。

 
このように、シャロームは、自分の話をすれば醜い背きの履歴しかないために、盛んに他者の信仰をべた褒めして、自分以外の信仰を讃えることで自己弁護に代えています。引用された個人が、いい迷惑だと思います。
 
>ブラウニングのアソランドの詩の一節は、主人のためにあるのかと思われます。
>「倒れるは立ちあがるため、敗れるより善戦するため、眠るは目覚めるため、(復活するため)」
 
立ち上がることはせず、人を倒そうとし、善戦ではなく、偽善をほしいままにして、
シャロームは、いったい、どういう世界に目覚め、復活できるつもりでいるのでしょう。
 
なぜ、他者の死を利用してまで、これほど白々しい記事が書けるのでしょう。恐ろしい人です。
読んでいて、こちらが震えそうです。偽善者は、ここまでするのかと、身の毛が弥立ちます。
 
罪を認めたことがない、悔い改めたことがない、平気で嘘を吐いて「(笑)」と書いてくる、荒らしや偽善者やカルトと一緒になって嫌がらせをしたり貶めたりしてくる、やたら説教や讃美話を大仰に語ればよいと思っている、自らの罪と向き合うことなく、偽善をごまかすのに、神を讃美しておけばよいと思っている、他者の信仰を讃えればよいと思っている、このような人は、決して、キリスト者ではなく、偽善者であり、キリスト信仰の敵でしかないのです。
 
>(続きます)
 
シャロームは、いったい、どのように続けられるというのでしょう。
自らの偽善をごまかすために、これほどまで、他の信仰者の死を利用したうえで。
 
 
(2019年04月26日、同日一部修正)
 
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