すり込みの詭弁
 
   信者とアンチの共通点と相違点
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41530818.html
   楽山のブログ
 
 
楽山は、荒らしの易坊の成りすましではないかと私が疑っている人ですが、前に、HSを脱会したと言いました。カルトを奪回した人は、大方、カルトに対して、人一倍、嫌悪と脅威を感じるものですが、楽山は、アドラー心理学の名を利用して、気に入らないことは無視する、という自己中心の信条の軟派カルトを唱えていました。
 
ところが、今回は、HS信者と、その批判者は、同じだという意見をあげて、ほぼ肯定しているのです。ここには、HSで、ひどい目に遭った、という、退会者の強い嫌悪も恐怖感も感じられません。退会話も嘘だったのではないか、と疑いたくなるような、回りくどい曖昧な表現による判断回避と、同じことの繰り返しと、結局は、批判することに対する不満が、執拗に述べられています。
 
理路が組み立てられず、判断をせず、責任回避の、ああでもないこうでもない堂々巡りになっています。前からですから、恐らく、作為的なのだろうと思います。
 
楽山は、先ず、長々と気候の話をします(省略)
その最後に「とほほ。」と書いていますが、楽山は、気が弱く柔和な人ですと印象付けたいのでしょうか。それにしては、今までと、ここで書いている文章は、弱さどころではない、尋常ではない執拗さがあります。
 

さて前置きはこれくらいにして本題に入ると先日ツイッターを見てたらHS(幸福の科学)の信者もアンチ(元HS信者で退会後に批判に転じた人)も同じではないかというツイートがあった。

 
これが、今回の詭弁の中心になっていることです。
 

これは前からある論点だけども全くの見当違いというわけではなくて一理ある見方ではあるんだよなあとは思う。

 
「だよなあとは思う」という楽山特有の、曖昧で無責任な、ボンヤリ言語の作為的な言い回しです。
 

この手の見方は信者もアンチも似たようなものだとしてどちらもともに見下すようなニュアンスが混じるから言われた側としては少しも愉快ではないしむしろどちらかといえば腹立たしくカチンと来るくらいのことだけどもだからといって一理あることを無いと強弁するわけにもいかない。それを嘘だ間違いだと決めつけるわけにもいかず一理あることは一理あると認めるしかない。

 
一理あることを無いとゴウベンするわけにもいかない、という、遠回しの表現ですが、これによって、自分の、一理ある、ということを肯定的に刷り込もうとしているのです。こういう表現が繰り返されます。これも、楽山の軟派カルトらしい作為でしょうから、嵌らないように注意する必要があります。むしろ、何が言いたいのか分からないという、奇妙さを伴うことを感じるべきでしょう。
 

ただこういうどちらも同じというのは視点を動かせばどうにでもなるものであろうからそこのところは忘れぬようにはしたい。たとえばHRHM好きからしたらHRとHMは違うことは感覚的には分かるものだ。両者に共通項はあるだろうけれどもそれでもやっぱり全く同じというわけではない。でもHRHMにこだわりがない者からみたらどっちも同じだということになるんだろう。ひょっとしたらパンクやら歌謡ロックやらもみんな同じくくりにさえされるかもしれない。

 
視点を動かせばどうにでもなる、など、いい加減な言い方で、理路を考えることを怠けているようですが、HR/HMは、ハードロック・ヘビーメタルのことで、音楽の話を挟んでいます。おかしいですね。カルト宗教の問題を、音楽の好みで喩えるのは、とても奇妙で、成り立ちません。真剣さが感じられません。
 
言い回しが、くどくなってゆくので、錯乱しているのかもしれません。あるいは、読む人を錯乱させて否定できないようにしたいのかもしれません。引っかからないでください。
 

この他にも例を挙げると右翼と左翼男と女人間と動物などだって違うもののはずだけどももっと大きく広い視点からすれば同じだという見方もできなくもない。そういう見方も成立しうる。

 
もっと大きく広い視点からすれば同じ、などと、実にいい加減な言い方をしています。
 
一貫して欠けていることとして、カルトとアンチの理路について、要素ごとに比較して是非や善悪や真偽や正否を考える視野が全く見られないことなのです。理路になっていません。こんな文章で宗教もカルトも、語ることなど、出来るわけはないのです。
 

同様に信者とアンチも視点によって同じだとも違うともい言える。では上記のツイートはどういう視点から信者もアンチも同じだとしていたかといえば信者もアンチも同じ次元にいる云々と書いてたので信者とアンチも同じ次元に見える程度の高さから見てたのだろうと推測できる。
それなら上に書いた通り高いところから見たら両者が同じく見えるのはまあ当然ではある。

 
同じ次元にいると言うが、その根拠となる理路が全くありません。楽山の物言いは、こういう特徴があります。何も語っていないのと同じなのです。こういう軟派カルトの話に、決して乗ってはいけない、という見本と言ってよいでしょう。高いところから、見ることなど出来ないのです。
 

では次に自分が信者とアンチとは同じという見方に一理あるとしたのはどの視点からの感想からかといえば自分としては信者とアンチと同一平面状からの感想のつもりではある。

 
楽山は退会したと言ったのに、信者とアンチの同一平面上だと言って、退会もいい加減であったことを、あるいは、嘘かもしれないことを、自ら露呈しています。すごく気味の悪い筆致が続きます。
 

ただ若干両者とは距離は離れているかもしれない。でも場合によっては両者の間に入り込んでいることもあるだろう。自分は元信者現アンチであってどちらの立場に立ったこともあるので結果としてそういう風になってしまうわけである。

 
どちらの立場にも入り込める、ということが、何も本気ではなかったことを表しているのです。
カルト臭満載です。
 

というわけでようやく自分の立ち位置を明らかにできたようなのでいよいよ本題に入ることにしたい。本当はすぐ本題に入るつもりだったが思わぬ回り道をしてしまった。でもせっかく書いたものを消すのももったいないのでとりあえずこのままにしておこう。

 
立ち位置など、何も明らかになっていません。理路がありません。胡散臭さだけがあります。
また、ここで、もったいない、という理由を言ってくるのは、おおよそ見当違いです。
 

次は信者とアンチで同じところを書き(というか同じに見えるところを書き)その次に相違点を書こうとは思う。そのあとはまあ出たとこ勝負ということである。

 
出たとこ勝負で、カルトを語る楽山なのです。理路も道理もないのです。
 

別な言い方をすれば風の吹くまま気の向くままという感じだ。まず信者とアンチの共通点として挙げられるのは何だろうと考えたときに第一に思い浮かぶのはどちらもHSに関心を持っているということである。

 
風の吹くまま気の向くままという感じで、退会したはずの楽山は、カルトを語れるということです。
何も真剣に考えていないことの証明でしょう。退会者のスタンスを持っていません。
 

なあんだそんなの当たり前じゃないかという気がしないでもないがだからこそ第一に思い浮かぶのだろうと思う。信者とアンチはHSに関心があるという点は同じ。

 
そうして、全然当たり前じゃないことを、当たり前と刷り込もうとしています。そうして、HSへの関心を、普通にあることという方向に導こうとするのです。汚い、という印象で十分でしょう。
 

ただそうはいっても両者のHSに対する関心の持ち方は正反対ではある。
HSについて一方は肯定的でもう一方は否定的であるという風に。
ただそうはいってもどちらもHSに強い関心を持っているというところはいっしょではある。
まただからこそ議論になるのだろう。

 
肯定と否定を、関心を持っている、という理由で一緒だと言っています。詭弁の理屈の捏造のためだけに、理屈倒れとなり、全く議論にも、議論のベースにもならない言説です。
 

お互いに同じことに関心を持っているのではなくてはそもそも議論にならず対立することもなくなるだろう。

 
どうでしょう。議論にならなければ対立することはないのでしょうか。
いくら言っても何を言っても聞かない楽山ですが、不当は不当であり、対立は対立なのです。
カルトとアンチが対立しないと言っています。錯乱でなければ、真っ赤な嘘です。
 

宗教では強硬な批判者が改心して熱心な信者になったという例もあるようだがこれも結局は強硬な批判をするということはそれほど強く宗教に関心があることを示しているのであってそういう者が何かを切っ掛けにして熱心な信者になるということはいかにもありそうな話ではある。

 
カルトから身を守るためには、必ず、胡散臭い信条や言説だという判断が必要です。その胡散臭さが、今、この楽山の記事に溢れているのです。
 
ここから、楽山は、画像によって文章を出してきます。文字数制限のあるツイッターでは見られることですが、ブログで出すのは、批判されたくないためか、引用しにくいようにしたいためなのでしょうか。
 
 
イメージ 1
 
(画像より)

もう一つの共通点はといえばどちらも完全ではないということだろうか。義人なし一人だになしというそうだし世の中には完全な人は一人もいないのであれば信者もアンチもこの点は同じである。
どちらも等しく義人でもなければ完全でもない。また信者にもアンチにもいろいろな人がいるんであってまともな人もいればおかしな人もいる。ここも両者は同じだ。

 
完全ではなく義人でもないならば、カルトとアンチは同質になるのでしょうか。断じて違います。
完全でなく義人でもないからこそ、人間について、人間の理路について、よく考える必要があるのです。煽りと刷り込み以外の何物でもない楽山の詭弁です。
 
(画像より)

ただ全体的に見た場合どちらのほうがまともでどちらのほうがおかしい人が多いかと言えば自分の見立てではそれはアンチよりは信者のほうのおかしな人は多いだろうとは思う。逆に言えば信者よりアンチのほうがまともな人は多いだろうと。でもまあこれは自分がアンチだからそう見えるだけかもしれないけど。

 
楽山はアンチではないと思います。アンチならば感じるはずの恐怖感や反省が全く見られません。楽山のアドラー教と私が読んでいる軟派カルトは、HSを敵としていないように思われます。こういう人にうっかり捕まってしまうと、一生惑わされる必然が待っているでしょう。
 
(画像より)

さらに共通点をあげるとどちらもスピリチュアル好きということも言えそうだ。どちらも神や霊や霊界を信じている人が多い。波長同通やらカルマやら輪廻転生やらそういったことを信じている人が多い。信者側はみなそうだろうしアンチ側も一部の例外を除いては大体の人は信じているのではあるまいか。信者の中にはHSを批判する者は無神論者や唯物論者だと決めつけがちの人もいるようだが実際のところアンチの大半は神や霊の存在を信じるスピリチュアル好きだというのが現実ではある。

 
神や霊を信じる宗教と、スピリチュアルとを、同質だという極めつけの浅はかな短絡が見られます。
楽山が、いかに、安易に宗教を考えているかが表れています。
 
(画像より)

それだからこそアンチはHS批判に熱心になるという一面もあるのである。神を信じ霊を信じるからこそ神の名を騙ったりイタコ芸によって故人を侮辱することを批判しないではいられないのである。もしアンチの大半が神も霊も信じていないならばHSを嘲笑はしてもこれほど強く批判することも無かったろうとは思う。

 
イタコは、日本の北東北(東北地方の北部)で口寄せ[1]を行う巫女のことであり、巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3
口寄せ(くちよせ)とは、霊を自分に降霊(憑依)させて、霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術。または、それを行う人のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%AF%84%E3%81%9B
 
イタコ芸とは、それを真似ることらしい。
 
カルトを脱した者が、スピリチュアル好きだから、批判に熱心になると言っています。カルトを脱会した者が、スピリチュアルを嫌い、神や霊を嫌う場合を考えないのでしょうか。
 
さらに、嘲笑することと、強く批判することを比べて、嘲笑のほうがマシだと言いたいのでしょうか。
こんな文章で、批判を不当だとでも言いたいのでしょうか。楽山は、とても異常だと思います。
 
批判するということは、おかしいと思うからです、神でも、霊でも、スピリチュアルでも、それを信じたら、人間としての生き方が破壊され、人格が破壊されると判断したから批判するのです。その場合、どこが、おかしいのかを書くのが批判になります。そういう判断の理路を全く理解できないのが、楽山なのです。けっして楽山に近づかないでください。
 
カルトが異常だからカルトを批判するのです。
楽山が異常だから楽山を批判するのです。
 
 
(2019年04月28日、同日一部修正)
 
 
 
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