婉曲の災い
 
   「実家の親」を苦痛でしんどく感じる本当の理由
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28960975.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
   
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190429-00278161-toyo-soci
   などからのコピペ
 
 
相変わらず、シャロームは、転載元へのリンクを貼らないようです。
 
私は、転載元の記事について批判する気はありません。
 
親子関係についての記事のようです。今まで、こういうことがシャロームにおいて問題となった、あるいは、そういう問題についてシャロームが書いたという記憶が私にはありません。
 
読んでいくうちに、いくつかの記事の内容が、シャロームを考えるとき、気になってきます。直接のテーマではないが、婉曲的に批判者に向けた当てつけとして書かれているのではないかということです。こういう婉曲的な当てつけは、今までも、見られました、というより、シャロームが不平不満を言うときの常套手段でもあるのです。
 
シャロームは、分かっているふうを装っているだけで、今回も、転載した記事が、婉曲的なシャロームを、婉曲的に斬ることになります。どんなに偉そうな記事を書いても、立派な記事を転載しても、中身のないシャロームには、いっしょだということに、シャロームだけは、気づかないでいます。
 
シャロームは、誰と直接名指しはしないで、望ましくない例として転載しています。直接の反論や弁明の出来ないシャロームは、そういうやり方で、一見無関係なことを、文章の類似によって拾ってきて、当てつけてくるので、ここでも、気になったことについては、シャロームだけを、信仰の指導者として、失格だという批判をせざるを得なくなります。
 

そもそも、親の存在を苦痛に感じてしまうのはなぜでしょうか。その原因は親・子、そして家族のコミュニケーションのとり方・言動パターンにあると感じています。拙著『「苦しい親子関係」から抜け出す方法』をもとに具体的にご紹介します。

 
コミュニケーションの取り方・言動パターンにある問題を、シャロームは、自分の問題として考えたことが一度もありません。いつも、悪いのは、他者、そして、批判者である相手、ここでは私であり、それを汚い言葉で、なじってくる、皮肉を言う、関係ないことでの他者のコメントを当てつける、という手段を取るのがシャロームです。
 
>■コミュニケーションではなく「傷つけ合い」
 

私たちは、他者を見るとき、ついほかの人も自分と同じことを考え、同じ捉え方をし、自分が予測しているような行動をとるものだと思い込んでいます。けれども、他人はもちろん、家族の中にあっても、何を是としてきたかは、世代によって異なります。そこで生じるのが、世代間のギャップです。

 
シャロームは、他の人も自分と同じ信仰と信条を持つべきだと思い込んいますが、そのシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条は、キリスト教のどこにも存在せず、シャロームの妄想の確信に過ぎません。世代間のギャップではなく、シャローム固有の訂正不能な妄想的確信なのです。そこから、シャロームの、皮肉、嘘、詭弁、自己正当化、なども生まれてくるのです。
 
そういう妄想的確信を、シャロームは、柔和を装って、「ではないでしょうか」「ですね」、などと自分の記事で書いてきましたが、疑問を呈したり批判したりすれば、一切答えず、なじるか、上のような卑怯な的外れな転載や引用をもって当てつけてくるので、私も、シャロームと議論することは諦めています。代わりに、誰もシャロームの影響を受けることのないように、また、近づかないように、批判記事を書いてきました。
 
この転載記事は、最初、関係ないだろうと思いましたが、どうもそうではないようで、シャロームは記事にする必然性を書いておらず、必然性などは見当たらないことから、私が気になったところを指摘してゆきます。それくらい、シャロームは、卑怯で、手段を選ばない人だということです。
 

にもかかわらず、こうした世代間のギャップを考慮せず、自分の視点から「自分は正しい」と思い込む親がいます。自分が育った社会環境と家庭環境を基準にすれば、確かに自分が正しいのでしょう。自分の基準は、自分が身につけ体験してきたことがですから、親の目には、子どもが間違っているように映ります。

 
シャロームが、世代間のギャップではなく、いつも言っていたのは、信仰は人それぞれ、ということでした。そのことによって、シャロームは彼の妄想的信条を正当化し、批判をするな、邪魔をするな、と言いたいわけです。
 
信仰が与える使命や務めは人それぞれですが、信仰対象は、イエス・キリストという、ただ一人の御方です。それをシャロームの場合、罪を気にせず悔い改めない、という、キリスト教とは真っ向から反対の妄想信条によって、好きなように信じ込んでいるわけです。
 
一見柔和を装うシャロームの妄想宣伝活動を許していたら、シャロームの言説が広まれば広まるほど、キリスト教も人間世界も破壊されてしまう必然を持っています。ゆえに、批判するしかないのです。個人が好き勝手な解釈で信じ込むようなってはいけないのです。そうならないために、キリスト教・キリスト信仰には、芯となる弁えとか節操というものがあるからです。
 
自由と、好き勝手は、違うのです。そこにおいて、福音伝道と、妄想宣伝は、分かれるのです。そこを混乱させようとするのが、後者を広めようとするところの、シャロームであります。
 

その最も悪しきパターンが「子は親に従うべき」という意識構造ではないでしょうか。親がそのような考えのもとで育っていれば、同じことを子に要求したくなります。

 
その最も悪しきパターンが「信徒は牧師に従うべき」という意識構造ではないでしょうか。
ここでの転載記事を宗教的問題について言いかえれば、こういうことになります。
 
まさに、シャロームは、キリスト者は自分という(自称)牧者に従うべき、という意識構造なのです。結果の重大性など、考えていないか、ただ尊敬される快感を求めているか、あるいは何も気にしていないか、であろうと思われます。
 

「子どもが間違っている」ように見えれば、なおさら自分に従わせたくなるでしょう。子どもは子どもで、自分の視点から「自分が正しい」と思い込んでいます。親の時代とは違った社会環境で育った子どもの目からすれば、親の主張のほうが間違っているように見えるからです。ここで互いに自分の主張を通そうとすれば、争いが起こるのは目に見えています。

 
親子でも転載記事において問題となっている以上、
他人同士の場合、宗教と信仰の場合、決めつけて上から見下ろす視線は、より残酷になります。
 
私は、批判するときには、根拠を示してきました。シャロームは、一度も、根拠を示していません。だから、直接の議論をしないということであり、今までの経過から、シャロームには、議論など出来ないことなのです。それでも、シャロームは、自分を偉く見せ、自己顕示欲を満たすために、下等な悪口を、婉曲的に、ごまかしながら、書いてくるのです。
 
シャロームは、議論の必要性を全く感じていません。以前、シャロームは、神の啓示と聖霊の導きだから議論の対象にならない、と言いました。誰もが、そう言い始めたら、どんなことになるか、ということを全く考えないシャロームです。こういう、考えの単方向性は、親子でも、人間同士でも、似たような問題を起こしてくるでしょう。
 
信仰の話になりますが、人間は、神の導きであるか、また聖霊の導きであるかを、確定することは出来ません。それが分かるほど、完全に造られてはいないからであり、このことは、我が身を振り返り、人間世界を見ておれば、分かるはずのことです。
 
この、成り行きを受け取って人間として考えるという働きが、シャロームには欠落しているのです。このことから、シャロームが、信仰?の名のもとに、自己正当化と自己絶対化をしていることは、著しい偽善が生むことになります。
 

ただし、この争いはコミュニケーションと呼べるものではありません。お互いに「相手が間違っている」とかたくなに思うことによる「傷つけ合い」です。

 
私は、おかしいと思うことを指摘して、おかしいと言いますが、シャロームは、嘘偽りで、あるいは、また、荒らしまで味方につけて、成りすましかもしれない楽山をも味方につけて、無根拠に、否定と貶めだけを批判者に向けてきたのです。双方向であるはずの、コミュニケーションとは決して呼べないやり口です。
 

幼い頃、子どもは自分の親が、誰よりも立派だと信じていました。自分よりも聡明だと信じ、親の言うことは、すべて正しいと思っていました。とても立派で偉大な人物に見えていました。ところが、子どもが成長して物事を判断する目が育つと、次第に幻想の皮が剥がれていき、親の実体を知るところとなります。

 
一部のサイコパスなどの異常な親子関係を除いて、これは、多くの人にとって、子供の頃の記憶としてあるものでしょう。衝突したら向かい合うことで、関係が新しくなることが正常ですが、ここが問題となり、この転載元の言おうとしていることなのでしょう。
 
信仰について、私は、最初の数年間は、シャロームを聖書の先生として敬意を払っていましたが、彼が、都合が悪くなると、はぐらかしてくるところから疑問をいだき、突っ込んでみると、コメントを隠蔽そして削除してきたのです。
 
シャロームは、恐らく、この転載元の記事を見て、ちょうどよい主張になると思い、全く他人事として書いていると思います。彼は、彼自身について、何の問題意識も持っていないことが明らかとなってきました。そういう人だから、平気で嘘を吐きますし、悔い改めは神が与えるので自分はしない、というような詭弁も弄してくるのです。
 

それにもかかわらず、親は相変わらず、親の権威を振りかざそうとするため、摩擦が起こります。支配的な親ほど、なおも従わせようとするでしょう。

 
シャロームは、何を言われても無視する不感不能の愚かな境地から、平気で、嘘を吐き、詭弁を弄してきました。私は、誰も近づかないように願いながら、批判記事を書き続けています。
 

その一方で親は、自分の方法がまったく子どもに通用しなくなったことに愕然とします。これまでの自分の地位を確保できないことに不安を覚え、反抗的な素振りを見せる子どもに苛立ちを覚えます。そのような親は、子にとって、すでに「わかり合えない」関係になっているのかもしれません。
ただし、親子の問題は、本当は、2人だけの問題というわけではなく、家族全体の問題でもあります。そしてその大元は、夫婦関係です。夫婦が夫婦として「わかり合えない関係」なら、親子関係もわかり合えない関係となりやすいでしょう。

 
シャロームは、恐らく、誰とも、分かり合える関係になったことはないと思います。
 

夫婦がわかり合えない関係であれば、親の関心はより子どもに向かいやすくなるでしょう。夫(妻)はダメでも、子どもであれば制御しやすくなります。母親の場合、子どもが息子か娘かで微妙に異なりますが、娘のほうが同性であるという点で、通じやすさや自分の延長線上にあるような気がすることから密着度が高くなりやすいでしょう。もちろんそれは共依存的にという意味においてです。

 
分かり合えない説教者のシャロームが、信徒に向かうとき、信徒ならば組みやすしとばかり、単方向で説教をし、逆らう者に対しては、まさに私が言われたことですが、共依存関係は良くないと言い逃れをして切り捨ててきたのです。批判しているのは、シャロームが悪意ある傲慢な偽善者だからであり、依存されるような魅力は皆無であることにシャローム自身が気づかないのです。
 
>■伝え合うコミュニケーションができない
 

そのような家庭では、感情的になって主張し合ったり、相手をまったく無視して会話すらしなくなったりというように、父親も母親も、健全でポジティブな関わり方やコミュニケーションの方法をとることができません。
なぜならそのような会話は、彼ら自身、したことがないからです。彼らは、相手のことを互いに「察し合う」コミュニケーション能力はあっても、言語で「伝え合う」コミュニケーション能力が乏しいのです。

 
シャロームこそ、まさに、人の言うことを虚心に聞いて、考えて返す、ということが、全くできないし、してこなかった人です。
 

互いに自分を強く主張して相手を論破するようなディベート的な会話を、コミュニケーションだと思い込んでいる人たちも少なくありません。異様に弁が立つ人、押しが強い人、人に話をさせないで一方的にまくし立てる人、相手に話す隙を与えない人、高圧的な物言いの人、いずれも、コミュニケーション能力が乏しい人たちの特徴です。それは「親しくし合う」「愛し合う」体験が乏しい人たちとも言えるでしょう。

 
私は、道理を通すキリスト者の話は、全力で聞くことに努めます。話にならないのは、結論だけを繰り返すような、荒らしやカルトや、シャロームのような偽善者に見られることです。
 

ところが、かつてはそのような人たちのほうが、頼もしいという評価を受けたり、強いと持ち上げられたりしてきました。家庭の中にあっては、「心が通じ合わない」人だったのですが、昔はそれが偉い、強い、立派というふうに評価されていたのです。少なくとも彼らの親たちはそうだったでしょう。娘、息子にとっては祖父母にあたる人たちです。

 
シャロームのような者こそが、見た目だけ、強さと完璧を、そして中身のない空疎な落ち着きや穏やかさや、世辞の丁寧さで、他者に受け入れられようとするのです。
 

彼らはそんな親たちのやり方から抜け出すことができないでいるのかもしれません。しかし、昔はそれが通用したとしても、そんな時代錯誤的な方法で、自分の子どもたちの尊敬を得ることはできません。

 
そんな時代錯誤的な方法で、一時のごまかしになっても、信徒の尊敬を得ることは、結局、出来るはずもないのです。
 
>■「せめてわが子だけは自由に」のワナ
 

そのようにして親に染みついた言動パターンは、さまざまな形で表出します。しかも、一見、そうとわからない形でです。代表的なものが、「私の望みを、あなたが叶えてね」というもの。多くの親が「わが子だけには、私のような苦労をさせたくない」と思っています。
せめて子どもだけは「自由に生きてほしい。生き生きと輝いた人生を送ってほしい。自分の好きなことをやってほしい」などと願います。言葉だけ見ると、とても子どもを大事にしているように思えます。
しかし実際には、その「願い」そのものが子どもの心の自由を奪っています。「私は我慢してばかりいたから、子どもには思いどおりの人生を生きてほしい」「学校で成績が悪くて引け目を感じていたから、子どもには優秀でいてほしい」「出身校に劣等感を抱いていたから、わが子には、そんな思いをしてほしくない」といった、自分が果たしえなかった理想を、子どもに押しつけて、「私の望みを、あなたが叶えてね」と言っているのです。

 
自己中心の愛情ということでしょうか。シャロームの信仰?にピッタリ当てはまるような気がします。
つまり、シャロームは、彼が信仰?と呼ぶものによって、思い上がることで、自らの不遇を克服した気になり、それを、誰にでも宣伝したいのでしょう。
 
いわゆる、ルサンチマン(弱者に募る怨念)に基づいて、自己中になって、何も気にしなくなれば、楽だよ、と教えたいのでしょう。そこからは、成長を拒否した人間の停滞と破壊しか待っていないことに気づかないのです。
 

その目的がどんなに立派でも、子どもに選択の余地を与えないのは、子どもの自由の侵害です。しかも子ども自身がそれに気づかなければ、親の期待にこたえられない自分を、不孝者のように感じるでしょう。親の思いに反して、自分の意志を大事にしようとすると、親を裏切るような気持ちに襲われるでしょう。子どもが自分らしく生きようとすることは至極真っ当なことなのに、まるで悪いことをしているかのように罪悪感を覚えて自分を責めるのです。

 
シャロームは、自分勝手に好きなように他者に言って、それを批判されることを嫌い、自由の侵害のように思い込んでいるようです。しかし、訂正不能な自己正当化と自己中心に与える言論の自由はないのです。何故なら、言論の責任を負う気が全くないからです。
 

とくに母娘の問題で言うと、母親がそうやって子どもに自分の願いや理想を押しつけようとするのは、母親自身が諸々の制約で自分の心を縛っているからです。母親がどんなに、「子どもには苦労させたくない。自分の理想どおりの子どもになってほしい。自分の好きなことをしてほしい」と願ったとしても、やっていることは、「自分の心を縛る」方法を教えているにすぎません。しかし、それは、親自身もまた長年「従う」ことを行ってきたからでもあります。

 
シャロームのように、人の言うことを聞かないまま、自分の願いや理想や信条?を押し付けようとするのは、彼が、人を縛り、上に立ちたいという欲望に他なりません。
 

このように親子関係というのは、社会的な環境と密接に根づいたものがあります。ゆえに、非常に根深いものではありますが、こうした全体像を知ることは、実は「親だけが悪いわけではない」という親への理解にもつながっていくことを、ぜひ知っていただきたいと思います。

 
説教者と信徒の関係は、人間性と密接に結びついています。その関係を神?の名のもとに無視すれば、表れてくるのは、自分信仰による破壊だけになります。
 
私は、自説を言い張っているのではありません。シャロームとの関わりで、シャロームに何の説得力もない当てつけや言い張りの悪意だけを返される間、私は、そういう無意味さと正常なやり取りなど出来ないし、私の言説を改めるとか、私の意見や批判を引っ込めるとかということは、起こる動機が生まれようがない、ということです。
 
>石原 加受子 :心理カウンセラー

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私から言いたいのは、テーマが何であっても、
世辞を返す以外には、他者のことが全く分からないし、他者を分かろうともしない底意地の悪い害毒に満ちた説教者にご注意を、そして、決して近づかないように、ということです。
 
私は、転載元の記事を批判する気は全くありません。
シャロームが、自らを省みることなく、勝手に載せている、という、転載記事の内容とシャロームの関係において、問題ありとして、批判しています。
 
 
(2019年04月30日、同日一部修正)
 
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