「讃美の家」批判17
   聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
 
 
疲れて心が折れそうになりながら書いています。
いずれ書けなくなるから、そのときまで書いていようと思います。
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聖書の聴き語り→「幸いな人」
 
>いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
>すべての事について、感謝しなさい。
>これが、キリスト・イエスにあって、
>神があなたがたに求めておられることである。
>(新約・テサロニケ人への第1の手紙5章16~18節)
 
(私)
いつも喜んで、総てのことについて感謝できるでしょうか。
出来るという者がいたら、気色が悪いくらい、嘘だと思います。
神が求めていると言われても、
人がその通り出来ることは極めて少ないのです。
出来ないことは、出来ないと言ってください。
それが、神の前に、正直な誠実というものです。
 
聖句ですが、これが書かれた状況を考えるべきでしょう。
 
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私のブログ拙作「純粋な信仰」の中に次のように書きました。
 
「信仰の原罪」は人の中に常在している。
では罪なき純粋な信仰はありえないのか。
 
1.「信仰の原罪」を突き詰めて、
「信仰が罪ならば、いったい何を信じれば良いのだ」と叫ぶとき
2.非常な苦難の中にいて死を思ってしまうような状況
3.死が間近に迫っている時
 
この絶望の祈りにおいて、まさしく理屈抜きの信仰は
いちばん「純粋」に近くなる。何故なら
「信仰の原罪」について突き詰めること自体が無意味になるからである。
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新約聖書の時代というのは迫害が身近に迫っており、
上の2の「苦難」に相当する状況が常にあった時代です。
 
2011/10/15(土) 午前 4:47[ st5402jp ]
 
そしてこの時代においては「迫害者という敵」が明らかであった時代です。
 
ゆえに上の聖句が意味を持ち、説得力を持ってくるのです。
 
同じテサロニケ1の2章13節に
「人間の言葉としてではなく神の言として・・」
と書いてありますが、これも上と同様の苦難の状況で、
しかも使徒と呼ばれる聖人が書いたから説得力があり、
こういう言い方が必要であったということも
少しは共感を持って分かってくるのだと思います。
 
したがって現代の信仰者や求道者に福音を語るのに、
あとに書かれている記事、つまり
ダビデの不倫とか、悔い改めによる赦しと救い、
イエス・キリストがダビデの子孫であること、等々が、
最初の聖句の、いったい何の説明になっているのでしょうか。
2011/10/15(土) 午前 4:51[ st5402jp ]
 
あなたシャロームは、使徒でも聖人でもない。
二千年前と同じ状況に生きているわけでもない。
 
そういうあなたが二千年前あるいは大昔の聖句を引用して、
特に最初の聖句を引用して「祈り」だけでなく、
「いつも喜び」「すべてに感謝し」
「キリスト・イエスにあって」
「神があなたがたに求めておられる」
と書くことで、いかなる扉を開け、
いかなる無理を理解させようとしているのでしょう。
2011/10/15(土) 午前 4:52[ st5402jp ]
 
(私)
偽善者は、実に、出来ないことを、中身のないことを、
ことさら大仰に言い張ってきます。
シャロームに、出来るなら、彼は、批判をも喜ぶはずです。
シャロームは真っ赤な嘘を、また、ついているのです。
 
>すべてのことの中に、もし、生ける神の
>人の思いを越えたすばらしい計画・支配を信じることができれば
>どんなにすばらしいことでしょうか!
 
(私)
いちばん信じていないのが、シャローム自身です。
嘘で出来ているような人だと思います。
 
信じることができれば
どんなに素晴らしいことでしょう、と私も思いますが、
「すべてのこと」にはすべての不幸や災いも含まれていて、
そして、どんなに素晴らしい計画・支配であるかを
人は知り得ません。したがってこの言葉で
いつも「すばらしい」と讃美と感謝が出来るわけではない。
 
ここに欠けているのは、知り得ないすべてのことに
いつも感謝するには無理があるという人間としての共感です。
ゆえに、あとに続く記事を読みましたが、
「キリスト・イエスにあって」「福音の扉を開ける鍵」
などという表現をされても、また、その答えであるかのように、
大昔から二千年前の神の計画の成就の話をされても、
地獄のような現代に生きている人間に、
人としての説得力を持って伝わるものはありません。
2011/10/15(土) 午前 4:54[ st5402jp ]
 
誰にとっても刺される針は常に痛いということ、
つまり現実の問題の答えにも考察にもなっていない。
 
あなたは王ですか。ダビデですか。預言者ですか。
キリストですか。使徒か聖人ですか。
そこに生きているのですか、二千年前に。それとも
・・・神の計画を知って言っているのですか。
あなたが人に何か保証できるのでしょうか。
 
人は人に何も保証できない。
神が保証する未来を人は知り得ない。
・・・ということさえ書こうとしない。
にもかかわらず、信じることの本質に迫ることなく、
見た目が好ましいと自分が感じたことを、
辻褄合わせのように聖書から拾ってきては、
信仰者や求道者への配慮なく無遠慮に書き続ける。
それは聖書の正しい読み方でしょうか。
 
今の現実の自分の弱さや欠点から目を背けているのは
あなたではないでしょうか。
2011/10/15(土) 午前 4:56[ st5402jp ]
 
(私)
いちばん信じていないのが、シャローム自身です。
嘘で出来ているような人だと思います。
 
伝わってくるのは人間性というものに配慮の足りない人の、
まるで聖書の奥義をご披露したかのような
神がかり的で多幸的な自己満足の気分に過ぎなくなります。
讃美と感謝の一辺倒でしか信仰を語らないあなたらしい文章です。
 
あなたからは「信仰がない人には分からないのだ」と
言われそうな気がしますが、そう言ってしまえば、
自分の文章の偏りと片落ちを
人の不信仰のせいにする自己正当化になってしまいます。
 
あなたの文章を読むとき、
人間としての共感の乏しさと、一方では
チクチクと刺してくる棘のようなものを感じます。
刺される棘を痛くないとは言えず、
ましてや共感や理解を期待されても、
これもまた無理というものでしょう。
あなたには悔いもせず改めもしないことがあるからです。
 
2011/10/15(土) 午前 4:59[ st5402jp ]
 
(2011年10月15日)
 
(2019年04月30日、修正)
 
(私)
上のようなことを、私は、8年前から書いてきた、ということですが、
シャロームは、読む気がないので、今も、似たようなことを書いてくるだけです。
これが、成長しない人の、成り行きなのです。
 
 
 
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