復活と出会い
 
   復活のイエス・キリストとの出会い
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28966114.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、キリストの肉体の復活は譲れないと言ったことがあり、それを訂正していません。というより、シャロームは自分の意見を一度も訂正したことがありません。
 
だから、様々な偽善に走るのですが、双方向の遣り取りも議論も全くできないので、シャロームと話すことは、何の解決にもなったことがありません。それが、私が、シャロームに出会って十数年、批判して8年の経過と結果です。
 
またシャロームは勘違いしているようだが、復活の問題は、シャロームが譲る譲らないということとは、何の関係もありません。
 
>★今日のみ言葉★(2019.4.21)
>「復活のイエスとの出会い」

イエスが十字架に架けられて、その生涯を終えたその後、復活がなければ、
キリスト教はどういうことになったでしょうか。
世界の3大宗教の教祖は釈迦、キリスト、マホメットと言われています。
釈迦もマホメットも死んだ人間であり、一般にはイエスも同じように死んだ人間と見られています。

 
3大宗教でキリスト教が本物だ、というようなことは、3つの宗教を同時に信じることはないのだから、誰にも分からないはずです。また、異教について分かっているなら信じているはずです。私たちキリスト者は、異教を理解していないという謙譲を弁え持つべきであります。
 
ですから、釈迦とマホメットは死んだが、キリストは復活して生きていると、優位性のように語るのは、論争的であり、キリスト教的ではありません。そういうのは、シャロームのような、野蛮で怪しいカルト的精神の好むところです。
 
例えば、私は仏教を知っているとは言えませんが、一般的な言い方においても、復活を持ってきてキリスト教優位で語るなら、仏教について、既に死んでいなくなった仏さまの思い出に生きることみたいな、相手に対する侮辱になりかねないからです。
 

イエスが復活しなくて、釈迦やマホメットと同じように死んだ人間であれば、
キリスト教はどういう宗教になったでしょうか。
あなたはなぜイエスの復活が信じらるのですか。
どうして信じられるようになったのですか。
自然に信じられるようになったという人もいます。
自然に信じられるようになったのは、その人が復活のイエスに出会ったからではないか。
主がいつも共におられることが信じられるのは、
その人が復活のイエスに出会ったからではないか。
復活のイエスに出会ったというこのような言い方は間違いだろうか。

 
聖書を読むことで、キリストの心に触れることが、信仰の始まりです。
そのことを、キリストとの出会い、ということは自然なことです。
 
それを、まるで目と目を合わせてキリストご自身に会ったかのように、紛らわしい言い方をするのは、神を恐れぬ決めつけの暴言であります。
同じようなことは、神の啓示や聖霊体験などの決めつけにも見られます。
 
今回、このような記事を載せるのは、シャロームが、信仰を魔法のような物や肉体に起こる奇跡をもってしか受け取らず、それゆえに肉体の復活だけにこだわって、いちばん大事な、キリストの心も、神の心も、聖書の中の人間の心も、受け取っていないからです。
 
何を受け取ったつもりでも、受け取ったものに、心がなければ、また、心を揺さぶっていなければ、信仰ではないのです。
 

この聖書のお話には、復活のイエスに最初に出会ったふたりの女たちのことが出てきました。
その後、イエスは弟子たちにガリラヤでご自分に出会うと言っておられます。
「出会う」がキーワードです。
死んだ過去の人に出会うのではなく、今生きておられる方に出会うのです。
今日、それは肉眼で見て分かる物理的な出会いではなく、霊的な出会いです。
出会った人たちはイエスが今も生きておられることが分かります。
この霊的な出会いの事実を大切にする必要があるとわたしは思います。

 
聖書は、肉体を持ったキリストの復活として表しているのではないでしょうか。肉体が復活したと言ったら、変に思われるから、霊的復活と言ったのなら、どうして、そう決めつけられるのでしょう。どうして、人間の狭い知恵の中に、神事を収めようとするのでしょう。
 
霊という言葉と、私たちが持っている、心、精神、魂、などの目に見えないものを表す言葉は、使う場合によって、慣習的に区別されていますが、人は、その実体を知りません。つまり、本質的に区別できるほどの能力を、人は持っていないということです。つまり、霊的復活と言えば分かる、ということではないのです。聖書を読んで心を動かされるのと、霊的復活は区別されません。
 
何か特別の言葉を使えば、表したことになるという考え方は、シャロームや、カルトなどの、心さえも言葉で表して満悦するような、恐れを知らない者たちの常套手段であります。そういう者たちの多くは、復活と言えば、肉体が復活したのだと言い張り、それが信仰だと信じ込むのです。信仰の心が欠けているからです。つまり、肉体の復活の頑強な主張と信条は、マフィアの掟のようなものになってゆくだけです。
 
私たちは、どう言うべきでしょうか。正式には、人間として、肉体の復活があったかどうかは、二千年前のことであり、分からない、少なくとも、ピンと来ない、ということでしかないのです。
 
何故なら、肉体の復活は、物や肉体に起こる奇跡と同様に、現代では、少なくとも、都合よく欲しいときに起こってはいないからです。そういう弁えを持っておかないと、シャロームのように、奇跡を信じ込み、悔い改めもしないで、讃美の聖なる言葉だけを振り回すような見苦しい偽キリスト者になるでしょう。
 
教条主義や神秘主義やシャロームの妄想を除いて、肉体の復活については、それをどう信じようとも、頭の辻褄合わせにしかなっておらず、信仰として、人にとって必要な温もりも潤いも与えてはくれないのです。
 
私たちは、復活について、けっして分かってなどいない。これが、キリスト信仰の立場であり、キリスト者が弁えることだと思います。
 
人間にとって、信仰は、むしろ、分からないことが多いのです。むしろ、そのことが、人知を超えた神に対する恐れと敬虔の弁えを生むことになるでしょう。
 
聖書を読んで、心を動かされ、キリスト者になった私たちは、キリストと、キリストの言葉が、滅びていないことの証人であります。
 
キリストの復活を、超常の魔術臭さで汚してはいけません。
 

出会いとは、双方のことであり、一方だけでは出会いは起こりません。
イエスことが分かってくるとき、その人はイエスと出会うことになります。
何かの困難な状況の中で、イエスと出会った人たちもいます。
そのような特別な場合だけではなく、もっと普通のことの中でイエスに出会うこともあります。
それは、その人にしか分からない経験かもしれません。
イエスはその人に目をとめ、心にかけておられるから、その人に出会われるのです。

 
聖書のキリストに心を動かされることを、キリストとの出会いと呼ぶことがあります。
キリストを飼い主と仰ぐのが、キリスト信仰です。
 

復活について、聖書は説明によって、頭の理解を助けようとしていません。
イエス復活の知らせは、御使いから女たちへ、女たちから弟子たちへと続き、その後、イエスとの出会いが起こっています。
更に、弟子たちから他の多くの人たちへと、その知らせはバントタッチされていきました。
今日、世界中に、そして、東洋の端に住むわたしたちの所にも復活の知らせは広がり続けてきました。
まず、イエスの復活の知らせを聞く必要があります。
そして、人は自分自身で復活のイエスに出会うのです。

 
上のほうで、霊的な出会いと言ったのに、ここでは、まるで、目と目を合わせて出会うかのように、復活を知らせたら広がったというような、だから復活の知らせを聞く必要がある、というように、語り方が大仰になっていることに違和感を覚えます。キリストとの出会いは、その人の人生上の個人的な体験であります。
 

わたしはわたしを愛する者を愛する。
わたしをせつに求めるものは、わたしに出会う。(箴言8:17口語訳)

 
神を愛する者は、信仰について、少なくとも故意に白々しい嘘を吐きませんし、言い逃れの詭弁もしません。弁明が出来ないのに、説教者面で、言い続けることも書き続けることもしません。それを平気でする者は、もはや、それだけで信仰を否定して軽く見ているのと同じです。
 

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10:9口語訳)

 
心で、罪を悔いることがないのに、言葉だけ、復活を信じると言うのは、全くの嘘つきのすることであり、そういう者は、この聖句を悪用する反キリストに過ぎないことは、言うまでもありません。
 
>《shalomのコメント》

最近、ある文書を受け取りました。一部を引用します。
「今日、人間中心主義的な聖書解釈の中で、聖書信仰を否定して、
(イエス・キリストの)処女降誕に限らず、十字架の贖罪や復活などキリスト信仰の中核までも、
否定する異端的な聖書理解を主張する聖書学者や牧師が増えてきています。・・・
キリスト者は聖書の神のみ言葉としての権威を回復させ、
キリスト教会に聖典としての聖書を取り戻していかねばなりません。」という主旨でした。

 
聖句を利用して盛んに讃美しながら、平気で嘘を吐き、悔い改めなくても赦されるとか、悔い改めは神が与えるから自分ですることはない、などという愚にもつかぬ詭弁を弄し、人を嘲笑い、数々の偽善の証拠を残しながら、なおも、平気で、キリスト教について物申すつもりでいるシャロームは、最も忌むべきペテン師であります。
 
なお、物や肉体に起こる奇跡は、キリスト信仰の中核とはなり得ません。
 

★今日のみ言葉★は4月21日イースターに書かれた記です。
イエス・キリストのよみがえりを記念するイースター復活祭の日の記事です。
すでにクリスチャンのかた、そうでない方、読まれる方それぞれ、
どのような理解をされるかは自由です。
人間中心主義的な聖書解釈によると、キリスト信仰の中核である
従来の正統的なキリスト教信仰の中心教義であるイエス・キリストの処女降誕に限らず、
十字架の贖罪や復活まで否定する聖書学者や牧師が増えてきていますというのです。
驚きでしょか?当然でしょうか?
人間中心主義的はざっくりいうと、理性的合理主義や情緒的相対主義といえるでしょうか。西欧は理性的合理主義社会、日本は情緒的相対主義社会といえるかもしれません。

 
このように、シャロームは、人間性の話になると、合理主主義という術語をボロクソ節のために出してきますが、情緒的相対主義というのは、あまり聞きません。知ったかぶりのシャロームが、見つけてきたか、あるいは、シャロームの悪癖である造語の可能性があります。少なくとも説明が必要だが、シャロームは、できないか、自尊のために、それをしないのです。
 

そうであれば、どちらにもイエス・キリストの処女降誕に限らず、
十字架の贖罪や復活などを否定するのは当然のような気もしますが、いかがでしょうか。
そのようなことを心に留めながら、しばし「聖書のみことばの黙想」を読んでいきたいと思います。

 
贖罪も、肉体の復活も、否定するのではなく、シャロームのようにならないために、分からないと言うことが大切であり、少なくとも、決めつけないということです。シャロームは、この道理が、全く理解できないのです。正誤の二つしかなく、正でなければ、みんな誤だという、前から言ってきたことですが、全か無かの決めつけしかない幼稚な理路に生きているのです。
 
だから、シャロームには、信仰の話は通じません。どんなに受けの良いことを言われても、褒められても、シャロームが語ることに耳を貸さないでください。
 
相対主義というのがあったので、参考までに引用しておきます。
 
(ネットから引用)
「我々が信じている考え方はもしかしたら正しくないかもしれない、我々は悪しき決め付けをしているかもしれない、……」と考える慎重な態度は当然の前提であり、狂信者でもない限り、誰も否定してません。この誰も反対してない常識的立場を「相対主義」と呼んでもメリットはなく、せいぜい議論を混乱させるだけでしょう。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html
 
(私)
信仰においては、悪しき決めつけをしているかもしれない、という、慎重な態度こそ不可欠であります。何故なら、常識的立場を、信仰の名のもとに否定して、魔術的な世界を広めようとする輩がいるからです。ですから、カルト妄想においては、誰も否定しません、が成り立たないということです。書いてある通り、狂信者だからです。
 
(ネットから引用)
相対主義は懐疑主義同様、誰にとっても同じものである唯一の真理――客観的で絶対的で可知的な唯一の真理――の追及を放棄するのである。しかし相対主義は懐疑主義と異なり、真理といったものは存在しないとか、真理は知りえないとかと結論しない。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html
 
(私)
「真理は存在しない」と「真理は知りえない」とでは全然違うと思いますが。
(私)
以前、書いたことのある、信仰の相対性からは、神は絶対であるが、ゆえに、人は絶対ではなく相対的であり、ゆえに、神を思うにしても、信仰を思うにしても、人が絶対と見なせることはない、ということです。つまり、本質的に、人によって決めつけが可能なことはなく、修正可能な時々の判断をしているのであり、それが大切な信仰生活であり、信仰の道であります。
 
 
(2019年05月06日、同日一部修正)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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