神に任せるということ
 
 
すべて神に委ねて、神に任せていますということを
無責任や怠慢の言い訳にすることがあります。
 
神に任せるということを常習的に言い訳にしている者もいるようです。
 
私たちは、それぞれ、できることをするべきでしょう。
できることをせずに、神に任せると言うのは言い訳になります。
できることとは、どんなことでしょう。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
12:3
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4-6
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7
イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8
貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
 (ヨハネ書12:4-8、新約聖書)
 
できることについて、現実的な効率は、
無視してよいわけではないが、信仰において、第一義ではありません。
 
キリストは、ご自身のために人がしたことを、効率や成果で測ることはなさいません。
キリストは、マリヤの心を受け取っておられるのです。
 
神が見ておられるのは、人間の精いっぱいの誠実です。
効率が悪くても、成果が上がらなくても、
その誠実があれば、神に義とされるには必要十分なのです。
神は、人の行いだけでなく、心の中の総てを見ておられます。
 
一方、精いっぱいの誠実が見られず、できることをしないでいるならば、
これも、神は、人の行いだけでなく、心の中の総てを見ておられるということです。
 
 
ちなみに、現実を無視してよいと言えないわけは、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)10:16
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
 (マタイ10:16、新約聖書)
 
へびのように賢くあれ、とまで言っているのは、いつも羊のようであるなら、騙されっぱなしになるでしょうし、罪を悔い改めるのにも、ある程度の賢さが必要だからでしょう。神に任せたと言って、現実的な思考停止に陥ることを戒めています。
 
そこで、できることはここまで、というのは、どうやって見極めたらよいでしょうか。
 
人間には、やはり、できないことは、できないのです。
能力や適性がないという自覚です。限界の自覚でもあります。
とても心身が疲労していて、もう無理だと思う時でもあるでしょう。
 
やる気がない、というのは微妙ですが、
これ以上、やろうとか、やらねば、と思い続けると、病気になりそうな時ではあるでしょう。
 
例えば、私は、書くことに疲れることがあります。
疲れが、体の疲労であろうと、神経の疲労であろうと、心の疲労であろうと、病気であろうと、同じだと思います。でも何か書けるだろうと思って、書いてみると、書いた文章に、うんざりして、納得できなくなって、ますます疲労する、・・そういうときには休みます。
 
 
私が信仰について書くことは職業にはなり得ていないので、空しいかもしれません。現時点で、私は、職に就く体力も気力も意欲も能力もないと判断しています。なんでこうなってしまったのか、祈りにおいて、神に、問うことがあります。返事は、もちろん、はっきりとは、ないのです。
 
しかし、今していることしか出来ないようなので、これを続けて、神様に、なにをやらかしたか、祈りのうちに捧げる以外にはないと思います。できることをする、ということであり、それしかできないということです。
 
それぞれに、できることがあると思います。生きている間、それだけは、努めてしておきたい、ということでもあります。それが、社会一般に、くだらないと言われることであっても、精いっぱいの正直さがあるなら、神は顧みてくださるでしょう。
 
なにをつまらないこと、やっているんだと、他者に言わないようにしてください。相手にとっては、信仰者として懸命であるかもしれないからです。また、自分も、たかだか、できることをしているに過ぎず、つまり、多くの目からは、実際、収穫の見えない、つまらないことをしているのです。
 
つまらないことを・・と、他者から言われたときには、これしかできないこということを確認してください。つまらないことをしているのだという自覚は、罪の自覚であり、神の前に、へりくだる動機となるでしょうから、信仰上、とても大切です。
 
いつでも、気づいたときに、告白と悔い改めは出来るのですから、信仰者として正しいかどうか、自分で決めつけないようにしてください。正しいかどうかの裁きは、神の仕事です。
 
しかしながら、罪を認めず悔い改めず、平気で嘘を吐き、讃美ばかりして取り入ってくるような者には関わらないでください。それを判断する賢さと神への従順が与えられるように祈ってください。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 (マタイ7:1-5、新約聖書)
 
偽善者は、文句を言われたくないために、この聖句「さばくな」を好んで利用します。もし、人が、人に、何も意見を言わなくなったら、人が、人を、批判しなくなったら、罪と偽善だけが支配するようになる、という必然を弁えてください。
 
神に任せる、ということは、聖句の「さばくな」によって、人に意見も批判をしないことではありません。できることを、できるだけ努めたうえで、最終的な結果を、神に任せることです。
 
できないなら、向いていないと思うなら、無理に意見を言う必要もなく、無理に批判をする必要もなく、そのように祈って、赦しを乞えばよいのです。しかし、神に任せたから、裁かないから、自分は正しいと決めつけてしまうと、訂正不能の自己中心に陥ってしまうでしょう。
 
人は、人に対して、人の世界で、人間として、できることをするべき存在として造られていることを覚えてください。「さばくな」という聖句を盾に、意見を遮ろうとする偽善者は、相手を、逆に、人を裁こうとする罪に定めて、裁いているのです。
 
人に人が意見することは、裁くことではありません。この「さばくな」という聖句は、人が神の権威をもって、訂正不能に、他者を罪に定め、決めつけることを、戒めています。つまり、神の権威を、人が持ち得ないことを教えています。
 
神は全知全能ですから訂正する必要がないけれど、人は、反省・訂正・修正、成長をしなくなったら、能力がないのに、全知全能を気取る自己中心になってしまうということです。つまり、聖句は、人の自らの訂正不能を厳に戒めているのです。
 
聖書を読めば、そして世界を見れば、訂正不能は、総ての罪と偽善の根源であります。
 
人は罪を犯します。一時的には偽善も働くでしょう。しかし、いつでも、訂正不能でなければ、まだ、主のもとに帰ることが出来るのです。
 
そのために必要となるのが、自分の目のちり、すなわち自分の罪を見ること、すなわち、罪人としての反省と告白と悔い改めの祈りです。
 
自分の罪を見なくなった者は、自己中心と訂正不能の偽善者となって、口で裁くなと言いながら、人を裁いてばかりいるのです。罪を認めず、悔い改めず、讃美に終始して上に立つ意識から、他者を見下ろし、軽く見る生き方は、キリスト信仰の敵です。
 
私たちは、訂正不能でよいような絶対の境地を与えられたのではありません。私たちは、血も涙もある人間として、救われるための道を与えられているのです。傷つきながらも、そこを歩いていることを忘れないのは、主イエスが先に歩いた道であり、かつ、主イエスがともにその道において同伴しておられるからであります。
 
 
(2019年05月07日、同日一部修正)
 
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