好悪と善悪
好悪と善悪
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543695.html
楽山のブログ
好き嫌いと善悪の違いでも書くのかと思ったら、中身の乏しい世間話のような記事です。
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中野翠のエッセーはかなり好きな方だけど、
それについて、
中野翠は自分の感性、感覚で判断して書いてる云々、
という評論を読んだことがある。
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自分の感性、感覚で判断して書いてる
と楽山は書いてますが、他者の感性と感覚ではでは書けませんから。
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例によって、
なにで読んだかは忘れてしまったのだが、
そういう説を読んで、確かにその通りだなあ
と思ったことは覚えてる。
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当たり前のことを、確かにその通りだなあ、と言うボンヤリ言語です。
どういうレベルの作文でしょうか。考察と解説が見当たりません。
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これと似た話としては、
志賀直哉は、自分にとって快か、不快かで判断している
というのは結構、有名な話であるように思う。
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自分にとって快か不快かで判断、という話を、3行で書いています。
有名人の言葉を、これほど、気安く利用する人も珍しいでしょう。
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あとは、
佐藤優の対談本を読んでいた時に、
氏は、神学的な問いに対して、
それは趣味の問題ですと答えていたのが印象的だった。
<
神学的な問いに対して趣味の問題というのは、ひょっとして偽悪かもしれませんが、これだけでは判断できないでしょう。読者に判断させない書き方でしょうか。思考停止でも進めているのでしょうか。
趣味で神学を考えて、信仰を語るなら、おかしいです。やはり、偽悪の印象も受けますが、検索すると、神学は趣味だったのかもしれないということも否定できないかもしれません。次の楽山は、ふざけたことを書いています。
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これには、
「ええ! それでいいんかい?」と驚いたけど、
でもよく考えてみれば、
最終的にはそういう答えにならざるをえないのかな
とも思える。
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神学の修士号を持っている人と、楽山がやっていることは違うと思います。楽山は、いかなる大事な問題も、趣味なのでしょうか、自分の都合で、好きなように曲げて受け取って取捨選択して、選別してきました。不公平を生ずる楽山の趣味は趣味ではなく、悪趣味であり、偽善です。
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恥ずかしながら、
自分は、こういう冷静な対応はできずに、
自分の感性、感覚、趣味による判断を正しいとして、
それと異なる他人の判断は間違いだ
とすることが少なくなかったように思う。
<
趣味で判断することが冷静なのでしょうか。興奮しないと言うことでしょうか。
楽山は、一見、反省しているような言葉を並べていますが、前の長い記事といい、この記事のボンヤリ度といい、悪趣味で選別することは変わっていないと思います。楽山だけでなく、シャロームも、世辞のお詫びを入れたりしますから、そういう人の言うことは信頼性がなくなるということです。
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自分の個人的な感性、感覚、趣味による判断を、
正邪善悪の判断と取り違えてしまい、
自分の判断は善であり、正しいと思い込み、
それを他人に押し付けるというパターン。
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楽山は、自分のことを言っているのでしょうか。それとも、シャロームがよくやるところの、自分が言われそうなことを、遠回しに、お前もだろうと、相手に向けて当てつける手口でしょうか。
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こういう勘違いは、
今思い出しても、冷や汗が出るし、
穴があったら入りたいくらい恥ずかしいことであるけれども、
今でも同じ勘違いをしてしまいがちなのだから情けない。とほほ。
ここは気をつけなければ…と思う。
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嘘だと思います。言葉で、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい、とか言っても、相変わらず、皮肉と当てつけを婉曲的に向けてくるのは、自己絶対を押し付けていることに変わりありません。
こういうのを、真剣味がない、というのです。
行いが伴っていないからです。
穴があったら入りたいなら、穴でも何でも、入ればよいのです。
とほほ、と書くくらいなら、この口先だけの記事など書かなければよいのです。
楽山に、一番ふさわしいのは、
言葉を弄しても、言い訳にしかなりませんし、今までのことから、何か魂胆があるとしか思えないくらい信頼が失墜しているのですから、記事を書くことを止めて、沈黙のうちに反省することです。
いずれにせよ、今後書いてくる記事に反省が表れているかどうかを判断してゆきます。
今までの、気に入らないことを無視するアドラー教の自己中心の実践の経過がありますし、
直前の記事も、冗長な無駄の多い記事で、真摯さも見えて来ず、洞察も感じませんでしたから、
見通しとしては、恐らく、反省していると判断できる記事は書かないと思います。
(2019年05月24日)
好悪(こうお)=好き嫌い
個人主義?
「私の個人主義」夏目漱石
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543694.html
楽山のブログ
曖昧で、程度も分からないような反省の記事を書いた後で、この記事です。反省しない楽山です。
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「私の個人主義」をひさしぶりに見直してみた。
といっても、大雑把にざっと見ただけだけど、やっぱりいいなあ。
(引用)
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
(楽山)
この講演録をはじめて読んだ時は、
宗教のことでいろいろ悩んでいた時期だったけど、
暗闇の中をさまよっている時に、
ロウソクがぽっと灯った心持ちがしたのだった。
<
楽山は、独立した一個の日本人ではありません。言説の様々なところに、ごまかし、当てつけ、詭弁、裁判ではないのに証拠がないからシャロームの味方をするとか、狡いことをしてきました。卑劣な一人に過ぎないのです。
漱石の個人主義を自身に当てはめる資格はないと思います。あまりに書いてきたものの説得力が違い過ぎるからです。漱石は、この引用からは、欧米に対する奴隷根性を嫌って、誇り高くありたいのではないかと思われます。
>
当時、自分がハマってた宗教は、
教祖崇拝タイプのものだったので、
権威主義や個人崇拝を退ける漱石の意見は、
ほんとうに、目からウロコだった。
<
権威主義や個人崇拝を退けた人の話で目からウロコだった楽山が、どうして、えこひいき的にシャロームの味方のするのでしょう。何も良くはなっていない楽山を見てきたのが今までの経過です。シャロームは中身のない権威主義、楽山はああでもないこうでもないボンヤリ言語の偏向した中庸気取りです。
また、さらに、楽山、シャローム、荒らしの易坊には、ずっと、同一人物の成りすまし疑惑がついて回ります。信頼を失うとこうなる、という、実に忌まわしいネットの経過なのです。
>
「教祖の言葉を信じなければならぬというけど、
どうしたって納得できないのだから仕方がない。
納得できてないのに納得したふりをするよりも、
自分に正直になって、
納得できないものは納得できないとするしかなかろう」と。
<
納得できないから納得しないのではなく、楽山は、気に入らないから無視するのです。だから、気に入るような好きなことだけを積み重ねてゆけば、自己中心の快楽主義にしかならないのです。
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自己本位とは、
我を押し通せということではなく、
一定の見識、人格などを備えた上で
自己に正直であろうということだろうけど、
この自己に正直であるというのは、
本当に大切だなと、今でもしみじみ思う。
<
楽山は、我を押し通して、いかなる意見も、気に入らないことは無視する、ということを信条にしてきました。見識と人格を備えてはおらず、趣味と好みで、人を選別する人です。自己に正直なのではなく、自己の好みと欲望に正直なだけです。それは、大切などではなく、これほど人格の成長を止めてしまう破壊の悪性があるのだと、楽山やシャロームの文章を読むたびに、実感しています。
(2019年05月25日)
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