楽山の背教の証拠(2)2
 
 「第八講 ヨブ愛の神に訴う」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年09月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、書けないところを、引用と、要約の "つもり" と、広がりのない表現で、ごまかしてきます。今までも、恐らく、これからも、楽山は、言論から、いちばん遠いところで、我田引水で引用して迷惑をかけることしか出来ないと思います。
 
楽山は、読書したつもりだけで、読み取ってはいません。信仰を持たない楽山は、信仰を否定するために都合のよいところを引用しているだけです。信仰も、神も、自己愛性人格障害の楽山にとっては、言葉の字面以上ではありません。
 
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
 
「第八講 ヨブ愛の神に訴う」を読んだので、内容をメモ。 
ヨブは「友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗し」、「別に真まことの神を発見せんとする努力に入った」。
「そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである」
「人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵する」
「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」
 
教義・教理的な話です。「一人は大宇宙全体と匹敵する」などは大仰で語弊があるとも思われますが、書き記すにあたって、著者の、神を賛美したい情熱と志が表れているようです。楽山は、超常ホラーが好きな趣味だけで、こういう大袈裟な表現に反応するようです。
 
西洋では、ロッジ、ロムブロゾーら、科学者も、心霊研究など、来世についての研究をしている。
「第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである」
「神は義たるに止まらずまた愛なり」「神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである」
「神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做みなす時、人はわが罪の報むくいを怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである」
疑問、悩みがあるときは、焦らず、急がず、慌てず、希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと。
 
「希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと」で、楽山は、納得するのでしょうか。もし、そうならば、今日のような有り様にはならないはずです。恐らく、殆ど理解できないために、引用だけして、読んだことにしたいのでしょう。
 
おもに、旧約聖書は、神と人の決定的な違い、神の恐るべき全能、戒め懲らしめる神、などを語っています。旧約だけだと、超常的また教条的になりやすいというリスクがあります。
 
おもに、新約聖書は、キリストの愛と共感による赦しと救いを述べています。新約だけだと、信仰は、感傷的になりやすいリスクがあると言われます。
 
楽山は、教条主義的な解釈にも満たず、情緒的に感受することも出来ず、屁理屈に堕ちるだけのようです。つまり、最初から、楽山は、信仰を持つ意志などない人で、いちゃもん屋であり、自分を高めたいだけの偽善者だと思います。
 
さらに批判されて、弁明できないのに、成り立たないことを丁寧語で繰り返す行為は、宗教と信仰に対する明らかな嫌がらせの悪意ということになります。これによって、楽山の総ての丁寧語は、見せかけだけであり、見せかけだけの丁寧さを否定されます。
 
丁寧語を使うのは、そうすれば、冷静だと思われるだろうという狙いでしょう。楽山の意見は、ことごとく、思想のベースから成り立っておらず、かつ、進めてゆくほどに、さらに破綻しますが、お構いなしに不感不応の無反省と無責任のまま押し出してきます。
 
楽山は、内村鑑三の硬質な引用文と、楽山の自信ありげな丁寧語に、だまされる人が出てくることを狙っており、そのことを、こちらは危惧し憂慮して、批判を続けています。
 
しばらく読書を中断していたので、文章に慣れるまで難渋してしまったが、ゆっくり読んでいると徐々に文章のリズムになれ、その内容も頭に入ってくるようになった。こういう切り替えは、若いうちは無意識にやっていたけれども、年を取ってからはなかなかに難しく、けっこう時間がかかるからやっかいだ。ほんと、年は取りたくないものだ。
 
前から言っていますが、楽山は、まともな読書は出来ないと思います。都合の良い字面を拾っているだけという無理解が、ずっとあります。だから、頭にも心にも入ってもいないと思います。何を切り替えたというのでしょう。ずいぶん前に言って批判されたことを、また言っているだけなのです。
 
この講義を読むと、内村鑑三はスピリチュアリズムのことを知っていたようだ。当時の知識人としては、これは当然か。
 
キリスト教でも、聖霊と悪霊など、霊という言葉は使いますが、使ったからといって、なんとなく神妙な気分になったとしても、神妙や神霊が分かったことにはなりません。
 
ましてや、キリスト教の霊は、間違っても、楽山のような、親族のことを霊が分からないっぽいと言って、自分は霊が分かるっぽい?という自覚にのぼせ上がったスピリチュアルとか超常の霊能力?とかのことではありません。
 
このように、字面だけ引っ掛けて、神妙に見せかけて、自分を高めてくる楽山です。カルト性の欺きが酷いです。超常が分かるという楽山のスピリチュアリズムは、いかなる鋭さも発揮したことがなく、自己顕示欲のペテンに過ぎません。
 
ヨブは、神学の神でも、教会の神でもない、それらとは別の真の神を求めたというけれども、個人でそういう志をもち、実行するのはとてつもなく勇気のいることであったろうと想像する。
「神は義たるに止まらずまた愛なり」との言葉は、心に深く食い込むところがある。
 
楽山は、"神学の神"、"教会の神" などと軽口で、気安く言っていますが、実際に憂慮されるのは、キリスト教の内外に、カルト思想を蔓延させようとする楽山のような汚染物質が広がることでしょう。新コロナより、台風より、有害だと思います。過ぎ去らないで粘着するからです。
 
楽山を許容すれば、個人としても、集団としても、楽山のような、何を言っても、無視して、訂正不能に、同じことを刷り込もうとする反キリストの類が、ますます、人々を惑わしてくるのではないかと危惧しています。
 
「心に深く食い込む」・・こういう言葉だけのべた褒めを書いておくのが、楽山のイージーな書き方です。詳しい説明が何も出来ないのです。楽山は、"愛" さえも、字面だけ書いていると思います。言葉だけ書けば、その通りに思ってくれると、思っているのでしょう。ペテン師の特徴です。
 
書いて表現することの難しさを痛感している立場から見れば、楽山は、とんだピエロなのです。字面だけ書いて、世辞を返されるのが大好きな楽山です。したがって、広がりがないので、楽山の文章からは、意味も、感動も、共感も、生まれないのです。
 
愛は、おおざっぱには、共感より生まれる高等感情ですが、楽山が、それを、見せたことも、表したことも、説明したこともありません。言葉についての安易さだけが、楽山の書くものの特徴として表れてきました。
 
 
 【内部告発】HSUについて
 2020年09月12日 
 
 
自分自身を見ないで、人のことばかり言っている楽山。カルト批判どころではなく、楽山自身が、自己満カルトです。記事の大部分、省略。
 
傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけだ。その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無いのは丸わかりだ。
 
楽山の言こそ「傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけ」であり、楽山こそ「その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無い」ということです。自分が言われそうなことを、人に向けるのは、楽山の特徴です。作為かもしれません。
 
あるいは、楽山は、人を無視するし、自分を見ないので、自分の言葉が自分に返ってくるのが、分からないのでしょう。自己愛に凝り固まると、こうなるという見本のようです。こういう人にだけは、なりたくないものです。HSなどより、はるかに有害です。
 
(ネットより)
まる‐わかり【丸分(か)り】 の解説
対象となる事柄のすべてを理解できること。丸ごとわかること。
 
このように、自覚のない人は、いつのまにか、相手を批判しているつもりのことが、ブーメランのように、自分に当てはまってしまうのです。このブーメランという言葉を、先に、使ったのは、楽山その人なのです。にもかかわらず「丸わかり」と完全を誇るに至っては呆れてしまいます。
 
恐らく、同じことを言っても、自分を省みない楽山である前提を考えれば異常~邪悪としか言えない、ということが起こってくるでしょう。言うことが、逐次、今までの発言と矛盾してくるから、嘘だと分かってしまうからです。
 
長い経過という文脈では、人のことを言う資格も器量もない楽山だから、無理してきれいごとを言っても、皆、嘘になるからです。正体は、かなり悪魔的だと、既に、バレているので、何を言っても無駄なのです。
 
楽山は、すごい崩れ方を呈しています。楽山は、常識めいた書き方をしていますが、だまされないでください。彼の病巣は、もっと深いところにあります。獣性と偽善性と病原性を隠しての減らず口の記事3連発なのです。ゆえに、体質の異常と呼ぶしかないのです。
 
また、自らを見ずに、他を批判している楽山です。しぶといのではなく、無神経だから、平気で繰り返し書けるのです。嘘が分かりやすいカルトより、楽山が、いちばんの病原です。楽山発狂祖とでも呼ぶべきでしょうか。
 
楽山が、自身の有り様に気づくこともなく、何の努力もせず、真剣味もなく、正義の味方気取りで、正当な批判をしているつもりでいるのは、罪悪感がないためで、他のカルトより遥かに悪質だと思うから批判しています。楽山は、いつも、"つもり" だけの人です。
 
 
メモ的に:
 
楽山は、現実に悲劇が起こっていることをもって、神がいるならおかしいという言い分をしてきました。この時、楽山は、神よりも上に立って、こともあろうに、神を見下し評価し裁く態度なのです。楽山にとって、神は、自分の欲望と都合に合わせる召使でないと気が済まないのです。
 
信仰者は、現実に悲劇が起こっていて、その原因も理由もわからない人間として、自分でどうしようもないゆえに、より大きな存在を寄る辺とするために、神を、信じ、仰ぎ、希望とするのです。そして、罪と悲しみを正直に告白して祈ります。
 
 
おぞましい輩

おぞましい輩
 
 
(2020年09月14日、同日一部修正)
(2021年09月19日、再録+)
 
 
 
キーワード:恐怖
 
 
 (偶像)
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
 
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
(昔々・・)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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