楽山の汚物噴射
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(5)その他
 2021年09月18日  楽山日記(LD)
 
 
人の口を悪用すること、餓鬼のごとく、噴水状嘔吐のごく、水溶性下痢のごとく、爆発性放屁のごとく、人の迷惑を省みない痴態、楽山の汚染拡大、もはや、人間の、節操も、マナーも、礼節も、節度も、恥も、失った臓物の悪臭です。インテリ気取りの終末は、我欲の排泄物となっています。
 
*つづき
 前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。ただし今回は特定のテーマは決めず思いの向くままに書くつもり。
 
楽山の、思いの向くままとなると、いかなる節度も期待できません。前にも書いたと思いますが、思いつき次第、勝手な解釈のみで、狂犬が吠えるように、よだれをまき散らしてきます。その中身は、オレは偉いんだ、オレは偉いんだ・・という虚妄以上のものではありません。
 
*相対主義という無責任
真実は確かにそこに存在する。それは意見の問題では無い。今日、相対主義という、真実は互いに矛盾していようと見る視点によって幾つも存在するという古風な考えが根付いてしまっている…多文化社会を尊重して促しているように聞こえるかもしれないが、実際は単なる責任逃れを誤魔化してるに過ぎない
 」
 
人の考えを古風と蔑む人は、自分の考えは新しいと思っていて、その見なしに、おびただしい偏見があることに気づきません。神学とか教会とか教義とかに執着して、宗教と信仰について欠くことの出来なかった真実を理解しなかった人の怨念を感じます。
 
価値観だとか、モノの見方であれば、人それぞれということにはなろうが、真実に関してであれば、人それぞれというのは無責任と言われても仕方がないかもしれぬ。
真実を確定できない状態であれば、さまざまな意見があるのは当然ではあろうが、真実が確定された場合は、真実は人それぞれ違ってよいとするわけにもいくまい。
 
進化論は、客観的に確定されたものではなく、仮説として、ある程度の信頼を得ているということです。全てが説明されるわけもなく、論であり思想であり、近未来の予想が出来るような法則や公式があるわけでもないでしょう。
 
全ては遺伝子の利己主義によって定まるといっても、遺伝子が、いったい、どう具体的に、利己的になって、人間の真実と未来を照らして教えてくれるというのでしょう。全く別の分野を混同した乱暴な短絡だと思います。
 
楽山は、「人それぞれ」「確定できない」などという言葉で、自己正当化を企んできましたが、ここでは、「よいとするわけにもいくまい」と言っています。楽山は、定まらないのが特徴です。楽山が、真実に少しでも近づくような、はっとする記事など、見たことがありません。
 
信仰は、客観的に確定されたものではなく、個人によって、生きるに不可欠だから信じられているということです。未来は未知であり、客観的証明など出来ないことは、最初から前提なのです。ゆえに、信仰を、固定した思想や信条や対象物や集団と見なす視野に、信仰は見えては来ません。
 
とはいえ、真実を確定することで激しい争いを生むことになるとすれば、真実よりは和をもって尊しとする判断もありえなくもない。
この辺りのことは、ホントややこしい
 
楽山の「和」は、ほんとに口先だけの何の役にも立たない真っ赤な偽物です。いい加減がいちばんじゃろ・・という無節操は、以前からです。自己愛性人格障害のために、新しいことを受け入れることが全くできない楽山には、そこで終わって、知識人ぶって、自慢するしかないからです。
 
考える前に結論が妄想となっているような、楽山には、真実は、いつまでも、ややこしいままで、見過ごされてゆくのでしょう。自己愛性人格障害にとって、とてもシンプルな真実、という、テーマについての感想は、ややこしいという捨て台詞であり続けるしかないのです。
 
*進化論を教えること
ある物事は、ただ真実なのだ。それは選択や意見の問題ではない。あなたはご存じないだろう。それがどの場所よりも問題になる場所―学校―で、進化論を教えることは科学の教師にとってとんでもなくデリケートになってしまってる。
 」
上で触れている「真実」とは進化論のことだったのだろうか。それなら自分の考えは、ドーキンス支持ということになる。
正直いって、学校で進化論を教えるのは当たり前のことだと思うし、それを禁じるという発想はよく理解できない。
 
はっきり言って、楽山は、利用した誰の説も支持してなどいません。理路も、対立命題も、理解していないからです。理解したふうに悪用し、自分を高めて、忘れてゆくだけです。楽山を支配している自己愛性パーソナリティ障害NPDは、楽山に自分自身さえも忘れさせてゆきます。
 
その証拠が、一連の執拗な投稿であり、節操を失って、何の余裕もなく、何か書けば刹那的に難を逃れたかのような気休めになるのでしょうか。楽山は、今までと同様に、あるいは、もっと重症かもしれないが、独り言しながら洞窟の中をぐるぐる回っている危険な自爆霊であります。
 
つまり、何か新しいものを見出すわけでもなく、何かの役に立つこともなく、役に立てようとする意志もなく、人の口を利用して、書くということだけに執念を暴発させ、不完全燃焼して、有毒ガスを、まき散らしているだけなのです。
 
「禁じるという発想はよく理解できない」というより、楽山は何も理解していません。全て自己中の欲望が空回りしてきただけです。否定と肯定を両方言って、断定していないから、責任問題は生じない・・という呆れた無思考が、楽山の言っていた信条なのです。誰も関わってはいけません。
 
*意見
もちろん『コラーン』を読まないでイスラムについて意見を持つことは出来る。『我が闘争』を読まずにナチズムに意見を持つこともできる。
 」
その通り。誰でも何にでも意見を持つことはできる。でもその意見が的を射たものであるためには、それなりの基本知識はないより、あった方がよいだろう。
巷には慧眼の持ち主もいるだろうし、無関係の素人の意見を聞く必要がある場合もあるだろうけれども、そういう特殊の場合でもない限りは、まともな意見を持つためには一定の学びは必要だと思う。
 
自己中のために、基本知識を持たず、弁えず、口だけ出しゃばってくる楽山です。しかも、大方、他人の口真似に過ぎず、そのあと、引用し賛同し発言した責任をいっさい負わない男です。マックス卑怯者と言ってよいでしょう。
 
「誰でも何にでも意見を持つことはできる」・・責任を弁える常識人においてであります。無責任・無反省の楽山は、意見を持ってはいけないというより、持てないのに、吠えてくるのです。
 
意見を述べるには、「基本知識」は、「あった方がよい」ではなく、必須です。
 
「一定の学びは必要」・・その学びができないし、学んでいないのが、楽山です。自己愛性人格障害のために、他者の反対意見を無視し、本を読んでも、都合のよいところを、つまみ食いしているだけなのです。楽山の粘着する臭い唾液にさらされるのは、迷惑というより感染です。
 
*生存戦略
遺伝子レベルでは、すべてが利己的である。だが、遺伝子の利己的な目的は、さまざまなレベルにおける協力によって達せられるのだ。
 」
 
遺伝子に、利己というものを付けるのは、そのままでは成り立たないから、比喩であるか、嫌いな宗教は関係ないという意味の強意表現なのでしょうか。
 
宗教では多くの場合、利己心は罪悪とされることが多いのではあるが、進化論関連の書物を読むと、利己から利他が生じたとしているのは実に面白い。
 
楽山は、遺伝子の利己を、人間の利己心と混同しています。凄まじい誤読です。
 
楽山は、今まで、どれだけ、疲労するだけのインテリ気取り文章を発信してきたと思っているのでしょう。既に、気取りしかないとバレているのに、楽山だけが分からないのです。
 
とある本では、とある動物を観察した結果、群れのルールを守る個体は、群れの中の評判はあがり、交尾の相手を得やすくなる一方、群れのルールを守らない個体は、群れの中の評判が落ち、交尾の相手を得にくくなっていたことがわかったという。
 
公共という群れのルールを全く守っていない無反省・無責任の楽山が言っています。楽山が書いているようになるのです。というより、既に、なっているのではないでしょうか。
 
要するに、遺伝子を残すという利己的目的の達成のために、社会道徳を守り利他的に生きるという戦略は有効だということあるし、さらにはこういう戦略が有効だということは、社会道徳を守り利他的に生きているフリをするという偽善的な戦略も有効ということになりえるということ。自分にはこういう考え方は実に面白く、かつ興味深く感じられる。
 
理路のない妄想暴走貧相の楽山の暴言です。社会道徳を守っても守らなくてもいいのだそうです。現実に自分が掛けている迷惑を自覚できないものの言い分でしょう。そして、「面白く、かつ興味深く感じられる」と、偽善を肯定しています。
 
偽善は、罪の隠蔽偽装の分、最悪の罪です。楽山は、急性増悪(シューブ)を迎えているのでしょうか。破局点(カタストロフィー)が近いのでしょうか。ヤケクソなのでしょうか。狂っているのでしょうか。
 
(ネットより)
シューブ【(ドイツ)Schub】 の解説
《シュープとも》病状が急速に悪化・拡大をみせること。肺結核で多くみられる。急性増悪。
カタストロフィ【catastrophe】 の解説
《「カタストロフ」とも》
1 突然の大変動。大きな破滅。
2 劇や小説などの悲劇的な結末。破局。
3 演劇で、大詰め。
カタストロフィー
 
*目的と手段
生物体はDNAの利益のために存在していて、その逆ではない
 」
 
また、利益という自然科学としては非科学的な表現を使っています。存続・保持のため、というほうがマシのように思えます。DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝に関与する物質です。
 
アリをみていると、働きアリが不憫に思えることがあるが、個体単位でなく、群れ全体がDNAを共有しているという風にDNAを中心にしてみるとその感想は違ってくる。
 
こういう考え方は全体主義につながりやすい、という可能性を考えない楽山です。やはり、ネトウヨだからでしょう。一つ知ったと思うと、とてつもなく大きな話にしてしまう楽山の性癖です。だから、楽山が妥当な結論に達することなど、ありえない話なのです。
 
人に関しても、近親者と他人、人と動物…という具合に比較してみると、その愛着の度合と遺伝的な距離とは無関係ではないらしく思われる。
 
そして、楽山は、上の失言を、家族愛、同族合い、という方向に、言い逃れようとしています。詭弁と誘導と弁解のための、わざとらしい「愛」の言葉だけを並べて、整った見せかけの文章にしています。とても醜いと思います。
 
こういうことを考えると、自分が抱いている愛情だとか、利他的な思いと行動などは、本当に自分のものなのか、遺伝子の生存戦略によるものなのか分からなくなってくるのだが、この分からなくてもやもやさせられるところが実に愉快である。
 
楽山は、欲と利己を強く持っていますが、「愛情だとか、利他的な思い」を持ったことはないと思います。高等感情の鈍麻を、言葉だけでごまかしてきた履歴が、理解していないことを表してきました。楽山は、もやもや・・が愉快なのだそうです。異常です。
 
悪いことをしても、遺伝子のせいで、自分のものではない、という、罪悪感の欠損を、自己正当化しています。自己愛性人格障害を持つ病的ナルシストは、人格そのものが、有害であります。いつも、もやもやした嘘と詭弁の文章を書く楽山です。理路を組み立てることが全く出来ないのです。
 
*強がり
最愛のものたちと再会できる死後の世界というアイディアは、強い慰めになりうるだろう。私にはそうではないが。
 」
自分はこういうアイディアによる慰めを感ずる質なので、そうではないというのは強がりに思えてしまう…見当外れの想像かもしれないが。
 
最愛の者たちがいるとは思いにくい楽山ですが、死後の世界を慰めとしているのに、唯物論に賛同し、宗教と信仰を否定している、という、矛盾だらけで一定しない情緒不安定であります。見当外れの空想の断末魔になってゆくでしょう。
 
*希望?
われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。われわれにそれができるという事実は、避妊具の使用によって明らかになっている。同じ原理はより大きな尺度で作用できるし、そうすべきなのである。
 」
避妊具の使用は、よりよい機会、環境において、よりよい子孫をより確実に残すための手段とすれば、利己的な遺伝子にそむくというより、あやつられていることになるのではあるまいか。
 
遺伝子に操られているということにしたい楽山です。全てを遺伝子が悪いんじゃ・・ということにしたい楽山です。自分の遺伝子のせいにしても意味がないとは考えないのでしょうか。どうりで、言うことが無責任になるはずです。楽山の病理が、解明された感じでしょうか。とても空しい。
 
*宗教からの自立
理性的な人々が、こう声をあげるときが来たのだ。もう十分だ!宗教信仰は自立した思考を妨げる、分裂的で危険なものなのだ、と。
 」
これはその通り。
宗教教義によって考え、判断している限りは、自立した思考はできまい。
 
宗教を全く理解していない楽山が、また、理性を持っているとは全く思えない楽山が、どういう自立した思考をするというのでしょう。深い理解など、今まで、一度も、楽山には見られたことがありません。精神病質によって妄想と偏見に捻じ曲がった我執だけを見せてきた楽山です。
 
 
楽山は、親族や友人たちなどの近い人たちにも問題を指摘されてきたのではないかと思います。しかし、元々が自己愛性人格障害だから、病識はなく、一人前の自覚が我執となり、訂正不能となって、聞かなかったのではないかと思います。社会的責任など考えない人です。
 
楽山は、2年半前から批判されていることを知っています。空想好きでウソッピ物語の楽山は、子供のときから、嘘を吐き続けていて、何か言われることにも慣れていると思うので、問いただすことは、専門家でもない限り、無意味だと思われます。
 
楽山が、批判されていることを聞かれたら、"気持ちは分かるけれど・・やっぱ興奮しすぎじゃないかなあ" 、"精いっぱい反省しているつもりですけど分かってもらえない" というような言い方をしてそうな気がします。これが楽山の、ボンヤリ言語・トホホ言語なのです。
 
ずっと前からの無視と、執拗な投稿が、異常性の傍証になるでしょう。言い返せないのに、正義の味方気取りで、問答無用に投稿を続けているのです。説得は無意味で、我意を避けるには関わらないことしかなく、最終的な解決は、結局、強制力によらなければ、どうにもならない人です。
 
 
噴射する嘘

噴射する嘘
 
 
(2021年09月20日)
 
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  鏡に向かって
 
裸を
鏡に写してみる
一瞥にも堪えないが
嫌なやつだとはもう言うまい
嫌いだとも言うまい
お前をみすぼらしくしたのも
汚したのも私だから
いつか割れるときまで
自ら光を持たない鏡よ
つくられたままの面の奥行きに
また私が表れるまで昼と夜を
少し歪めてもいい
受けた光をお前のやり方で
返せるだけ返してくれればいい
さらに歪めるかどうか
あとは眼の奥の生まれ育ちが
裸の責めを負うだけだ
 
 
  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
 
  ガラスの檻
 
道は檻へ続くと運転手は言った
留置場か刑務所か
しかし人はいないという
動物園か?
しかし誰も寄り付かないという
周りの緑が土に変わるが
汚れているわけではない
空気は澄んでいて涼しい
人通りはやがて絶えた
車が止まったとき
運転手がいないのに気づいた
ガラスのドアが目の前にある
それだけがある
開けて入ると
中は清楚な趣で
曇りガラスの窓を持つ
土色より薄く塗られた壁に囲まれて
檻というにはあまりに細い格子の中に
黒く低い像
頭を抱えてうずくまる
かきむしるように乱れた髪
細身で胸から脇腹は
やせて肋骨が浮き出ているが
こぶのように筋肉が
硬く盛り上がって
激しく体
自らを抱きしめようとして
突き上げる脈のまま凍り付いている
窓からの淡い日差しが
膝を折り像の影を
ひざまずいた影に重ねた
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
神仏であっても、人権侵害はゆるされないってことかな?
・経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち
午前9:46 · 2021年9月19日
 
キリスト教だけでなく、仏教でも、何にでも、平気で口を出す楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、身の程を知らない男なので気にしないでほしいです。無反省で無責任で、無神経で無理解で、その自覚が全くない楽山の、ストレス解消の放言なのです。
 
無反省と無責任と無神経と無理解が、どれだけ、人権を侵害し、人格の尊厳を傷つけるか・・ということを、最悪の言論の事例で示してきたのが、自己愛性人格障害の楽山なのです。本人は、サイコパスらしい悪意だけで、罪悪感を、全く感じていません。だから、今も書いてくるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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