楽山の無理と我執
 
 
 楽山日記(LD)
 真理と言葉
  2014年03月03日
 
 
楽山の、7年前の記事ですが、短くて、中身は、さらに短い、というより、中身のない文章で、楽山の精神病理を表すデータになると思います。書いたけど、めんどくさくなった、しかし、自分の書いたものだから何かあると思う自己愛によって、載せた・・ということでしょうか。
 
真理とは、言葉では語り尽くせないものだといいます。とすると、真理として語られた言葉は、真理そのものではなく、真理そのものの一面を言葉で表現したにすぎないのでしょう。
 
言葉は、伝達のための暗号です。だから、国によって違います。楽山は、真理という言葉で、何を表しているのでしょう。真理を伝えるのには、言葉以外の方法も、芸術関係や、ドキュメンタリーの映像など、ありますが、言葉に頼らないでは、伝えにくく、生きにくくもある世界なのです。
 
楽山は、言葉以外の方法を身に着けているのでしょうか。一度も見たことがありません。「一面を言葉で表現したにすぎない」と言って、何を伝えたいのでしょう。この楽山の言も、私の言も、言葉を使って書いているのです。主旨が不明です。
 
霊感のことでも言いたいのでしょうか。しかし、この記事、後に2行書いているだけで、他には何も書いていないのです。発言の意図が不明です。つまり、数行の作文、不十分であり、的を外しているということです。このような、主張の不明な作文が、楽山の特徴です。
 
そうであれば、真理として語られた言葉を、真理そのものだと思い込むことは、貴人の肖像画を貴人本人と信じ込むくらいに愚かなことかもしれません。
 
真理を言葉で書くことが、愚かなことなのでしょうか。だとしたら、何によって表せというのでしょう。それを言えない以上、この作文の意義はないと判断されます。このように、楽山は、奇を衒(てら)って、常識を否定して、いい気になって・・、それだけということが多いです。
 
楽山が言いたいのは
1.自分が、いい加減なことを書いてきたことの不可避の言い訳。
2.霊が分かるっぽい自覚から、霊感を主張したい。
といったことが考えられます。
 
それにしても、中身のない文章ですから、けなすだけで、それも言葉をけなすだけで、書く意味はない文章だと思います。楽山の文章は、表面的に、もっともらしい体裁だが、よく読んでみると無意味という特徴があります。だから、私は、何度も、丁寧語にだまされないように、と書いてきました。
 
楽山の世界は、虚無なのだと思います。その表れなのかもしれません。基本的に、拠って立つ所がなく、言葉も、楽山の存在も、何もかも虚無だから、好きなことを好きなように言い放ち、反省もせず、責任を負わないでいられるのでしょう。
 
楽山は、仏様の気持ちが分かるという妄想様の体験を持っています。自分が、言葉で何かを表すことが出来ないから、一般に言葉は空しいことにして、霊能によって真理を伝えられるという自負でしょうか。しかし、楽山に、霊感インスピレーションの、ひらめきや洞察を感じたことは、皆無です。
 
楽山が書いてくることは、通念的なことを冗長になぞってくるか、理路や意味が妄想や偏見によるもの、そして、作為の嘘と詭弁、という類のもので、真理について、有益な情報も、感動も、何か参考になることさえも、受け取ることはなかったのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDにおいては、真理など、自分が分からないことは、自分の無能でも無恥でもなく、むしろ、逆で、本質的に分からないのだということを見抜いた自分の優れた洞察だとでも思うのでしょう。
 
つまり、都合の悪いことは、皆、他者のせいにするわけです。こういう人と付き合うと、疲労し、人格を破壊されるという根拠でもあります。実際には、自己愛性人格障害の楽山にだけは分からないことがあります。深い情感、羞恥心、悔いること、改めること、など、つまり、良心の産物です。
 
 
 
 性善説と性悪説
 楽山日記 2014年03月03日
 
 
楽山の、善悪についての、お粗末な感慨です。人間は、善だから、悪だから、ということが決まっているから生きているわけではありません。
 
「世の中、捨てたもんじゃない。根っからの悪人はいない。人は素晴らしいものだ」と思うときもあれば、「“義人一人もなし”とは本当だ。エゴイストでない人はいない」と思うときもあります。性善説と性悪説、どっちが正しいのかよく分かりません。
 
性善説と性悪説、どちらかが、正しいということなのでしょうか。おかしいです。楽山は、人間は、良心もあれば、悪意もいだく、言い換えれば、動物より高等で、かつ、動物より悪意をいだく、ということが、理解できないのでしょうか。
 
 (聖書より)
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 
 (ローマ人への手紙3章10~12節)
 
ローマの人々への手紙ということです。意味は、完全なる善は神のみであり、人間には、罪なき人はいない、ということでしょう。楽山のように、自分の非を認めない者は、神の存在を知ることもないということにつながります。
 
なのに、楽山は、神への不満と、神の不在を、詭弁と妄想をもって語り続けています。まさに、人間としての、義と悟りから、最も遠い者です。偉いと讃えられることもなく、有能と褒められることもない者が、ひねくれて、他者のせい、神のせいにするときの、偽善の陰湿な路地裏です。
 
ただ人に対して、やさしい目を向ければ性善説が正しく見え、厳しい目を向ければ性悪説が正しく見えるような気がします。
 
楽山の、やさしい目や、やさしい言葉や、コメントに寄せられた、やさしい人柄は、楽山の三文芝居であることが明らかになっています。やさしさの実質が、書いたものにさえ、その内容と文脈において、皆無だからです。
 
ゆえに、楽山は、性善説を知りません。また、罪を認めないのだから、性悪説も知りません。他にも、神、信仰、救いについても、知らないことを、自覚せず、自己中の、知ったかぶりだけで、学者気取りで、安い芝居で、書いては破綻を表している実情です。決して真に受けないでください。
 
 
 
 善人も、悪人もいない?
 楽山日記(LD)2014年03月04日
 
 
楽山は、以前にも悪を指摘されていたのでしょうか。自己正当化に必死で、しかも詭弁です。
 
「この人は善い人だ」と思っていた人が悪いことをしたり、「この人は悪い人だ」と思っていた人が善いことをしたりすることがあります。
 
結局のところ、人はその時々によって、善いこともすれば、悪いこともするのであって、そう簡単には「この人は善人だ」「この人は悪人だ」などと決めつけることはできないものなのでしょう。
 
完全な善は神のみであって、人間には、完全な善はないということです。悪魔は、神に勝てませんから完全でない悪ということでしょう。悪人は、どうでしょう。精神病質サイコパスは、乱暴とは限らず、やさしい言葉でだましたりもします。善の部分は、なかなか見つからない病質です。
 
楽山は、自分を悪と決めつけるなと言いたいようです。完全な悪もないと思っていましたが、楽山という人物には、悪意の嘘と詭弁ばかりが目立っていて、善なるものの欠片も見たことがありません。
決めつけではなく、悪を否定するための善の根拠が見つからないということです。
 
楽山は、あちこちに、学者気取り、評論家気取り、読書家気取り、そして、同情芝居、などで、自らを飾り、善人アピールをするのですが、無反省・無責任で、言ってることが嘘偽りなら、誰も信用など出来るわけがありません。
 
 
 
 「わからない」という幸福
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、答えられない人を、幸福だと言っています。しかし、楽山がしてきたことは、そういう人への、誘導のためのインチキアドバイスでしかありません。経過が、すでに長い間、楽山の発言を否定しているのに、楽山は、この時も、今も、自己正当化と誘導の詭弁を弄するのです。
 
愛とは何か?
死とは何か?
真理とは何か?
人生とは何か?
信仰とは何か?
こたえのない問いに明確にこたえられないのは幸福です。なぜならそれはマインドコントロールされていないこと、考える能力があることを意味するからです。
 
答えられないのと、知らないことにお構いなしというのは違います。ゆえに、後者の場合、考える能力がない可能性を考えてみるべきです。すなわち、答えられないのは、必ずしも、上の「考える能力があることを意味する」とは限りません。楽山の詭弁の褒め言葉にだまされないでください。
 
ゆえに、答えられないのが幸福と関係ないのは、当たり前です。むしろ、幸福なのだと誘って、考える能力を奪い、自らの奴隷のように見なしてゆくような、自己中のペテン師を警戒するところだということです。楽山は、いつも、明確でない嘘と詭弁と刷り込みを用意して欺いてきたのです。
 
 
善、悪、偽善(小)

善、悪、偽善
 
 
(2021年10月01日)
 
 
 
キーワード:悪
 
 
  風に開く
 
風はひととき息になって
わずかの冷気を与え
わずかの熱を奪い
失意の胸を過ぎて
街角をさまよう
風は善し悪しを知らない
風はどれだけの人が
身を任せているかを知らない
風にとって自然に開く扉はないから
閉じられた扉の前で
風は乱れ分かれ
町を過ぎて
波の上を
川を過ぎて
森の中を
針葉樹のあいだを
連山の尾根に
吹き上げ
吹き下ろす
風は扉になって
自然に向かって開かれてゆく
 
 
  医者だった頃・三段論法
 
時々入院はするけれど
あの頃は気持ちも落ち着いて
調子は悪くないはずの患者さんが
医局にやってきて医局秘書さんに尋ねた
「○○先生はどこな」
「○○先生は今は会議です」
「・・・だけん、どこな」
「だから会議って」
「・・・だけん、どこなって」
と患者さんは粘った
 
口調は割と穏やか
落ち着いてはおられるようだが
○○先生は会議
会議中は会えない
ゆえに○○先生に今は会えない
という
三段論法の常識部分が不十分で
会議なら会議場へ行けば会える
という論理らしい
 
デスクで聞いていた私は言った
「会議で忙しかけん今日は会えんよ」
かくして三段目まで補足され
「あ、そですか」と言って
患者さんはあっさり帰った
「あれ?」と笑いながら
医局秘書さんは首を傾(かし)げる
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
 
 
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