復讐?告白?2
 
   「彼に神の救いなどあるものか」 (詩編3)
    楽山のブログ記事を改めて批判。
 
 
シャロームがしてきたことと同じような聖句の悪用です。都合の良いところだけ利用・悪用するのです。
 
ただ、終わりのほうで、楽山は、罪を認めるような発言をしています。罪の告白は、キリスト信仰において、重要な意味を持ちます。一般的にも、罪を認めるのと認めないのとは、判断において軽くはないはずです。どうなのでしょう。
 
また、罪についての重要な発言をしながら、それも嘘であったなら、もはや、神の前にも、人の前にも、誠実さは皆無ということです。だから、私は、より慎重が上にも慎重に、その実質があるかどうかを考えなければなりません。
 
そして、その後、罪の自覚は、皆無であると判断しています。つまり、嘘吐きが、嘘を吐いたということです。楽山は、本気で語る、ということが出来ない人だろうと思います。楽山を動かしているのは、真実への欲求ではなく、超常趣味かインテリ気取りの自己顕示欲だけのようです。
 
主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
(詩編3:2-3)
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょう。
 
詩篇3:2は、以下のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
3:2
「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。
3:3
しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
 (詩篇3:2-3、旧約聖書) 
 
楽山は、この聖句で、そのまま、神の救いなど無い、と言いたいのでしょうか。
 
ダビデ王が書いたとも言われる詩篇ですが、楽山はシャロームに酷似しています。批判されると、自分はこんなに苦しめられている、敵を滅ぼしてください、という聖句を並べてきました。
 
同じ体質を持っていることから、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、荒らしの易坊は、一人による成りすましではないかと疑っています。無反省の被害者気取りです。楽山は、芝居が好きのようです。ゆえに、わざとらしい対話形式の記事も書いてきました。
 
楽山が神の救いを信じているはずはないです。神を信じていたら、あるいは、最低限の謙虚さえ持っていたら、今までの私の批判もなかったわけです。真実に背くほうを選んだ人だと思います。高等な知性と感性も、そこからの、反省力や後悔の念や責任感も見られません。
 
キリスト者でもないのに、聖句を当ててきました。批判に対しても、反省はなく、弁明も反論もないのに、聖句を引用することは、キリストとキリスト者への嘲笑いと怒りしかなく、聖書を恐ろしく軽く扱っている自分を表しているようなものです。
 
聖書で、神の復讐を願う聖句として、適当に選んできたようですが、その心を理解しないまま、被害者気取りしか持たない自分によかれと悪用しているだけでしょう。詩篇3章という、はじめのほうというのも、手っ取り早いから選んだだけでしょう。
 
知らない土俵で相撲を取ることを企むと、こうなるのです。前に、根拠もなくシャロームの味方をしたときのように。キリスト教を知りもないのに、興味本位で、関わろうとするのは、宗教も分かっているという高慢な自己愛の証拠なのです。
 
怒らせて感情的になったら、こっちのものとでも、楽山は思っていたのでしょうか。
この聖句は、楽山に当てはまります。偽りを慕い求め、悩みを与える加害者として。
 
 (詩篇、口語訳)
4:1
わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2
人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。
 (詩篇4:1-2、旧約聖書)
 
ボンヤリ言語、ほのめかし、刷り込み、など、虚しい偽りの言葉しか言わない楽山に対して、当てはまると思います。妄想讃美の説教者のシャロームにも当てはまります。偽りの快楽だけを追い求めているので、不都合な本音をひたすら隠しているのです。
 
宗教関連の議論をしていると、
「彼は救われないだろう」
「彼は地獄に堕ちるだろう」
などと言う人がいるけど、
この詩を読むと、
そういうことを言う人は、
何千年も前から、いたようだ。
ということは、
こういう人たちは、
何千年経っても、
ずっと居続けるんだろうな。
 
あまりに、偽善性が酷い場合は、このままでは・・という推測から、言ってもいいのです。もちろん、先のことは、神のみぞ知ることで、人には分からないのですが、とても、救われるような人ではないと思っているわけです。
 
故意としか思えないような、偽り、偽善、隠蔽、偽装、改ざん、嘘、妄想、などが、ひどいシャロームと楽山なのです。ボンヤリ言語で書く楽山の記事は、ほぼ全部が芝居だと思っています。今の時点で、そう判断するしかないからです。
 
批判は、不正を指摘することです。だから、高慢、不遜、妄想的確信、訂正不能、など、信仰から、あまりに外れたことを言う人には、外れていると言いますし、キリスト者ではないとも相応しくないとも言います。
 
批判などの指摘によっても、反省しないため、反応する側の批判される態度・姿勢が変わらないで、相手が嫌になるようなことばかり書いてくるのは、偽善者やカルトの、一つの特徴です。いつも、人を下に見ているから、常に尊大で、それを隠すことはあっても、改めることはないのです。
 
でも、
人のことを
とやかく言っても仕方ないかな。
 
今まで、散々、呪いのように、とやかく言った後で、これを書くのは、冷静を装って柔和に見せかけるためです。普通、批判されたら、弁明し反論をするか、わけを聞いてくるか、投稿を控えるはずです。楽山、シャロームは、弁明も反論もできないので、婉曲的な当てつけをしてきます。
 
つまり、楽山の言説には、一貫した理路も情緒もないということです。言い換えれば、発言が、一方的で、かつ、その時その場の自分の都合によって、変わります。こういう人は、信用できませんし、こういう人を相手にしてはいけないのです。
 
まずは自分自身が、
人をむやみに裁いたり、
神の心を分かったつもりになって、
神は誰を救い、誰を救わない
などと言ったりしないように、
気をつけよう。
 
言ったりしないように気をつけるよりも、言われないように気をつけるべきです。宗教には、偽者やカルトが、付きまといます。無条件に、言わないようにしようと言う者は、大方言われている者であり、言われる理由がある者なのです。今まで、ずっとそうでした。
 
どうか、この、楽山という自己愛・自己中のペテン師に近づかないでください。今までのことから、性根から腐っているとしか思えません。だから、どんな善の芝居もするでしょう。そういう者を偽善者と言い、楽山は典型なのです。
 
ていうか、
考えてみれば、
自分も宗教にハマっているときに、
人に対して、「地獄行きだな」と言ったことがあったのだった。
自分はこのことはすっかり忘れていたのだが、
ずいぶん経ってから、当人から、次のようなことを言われて思い出した。
「ずっと前に、おまえから、地獄に堕ちると言われたことがあった。
あの時は、ぶんなぐってやろうと思ったぞ」
 
「ていうか」と若者を装っていますが、そんなに若くはないと思っています。
 
この話・・本当でしょうか。これも、芝居ではないでしょうか。不都合を無視する楽山です。ただ、何かを言って、それを、反省も訂正もしないだろうから、そのために怒りを買うことは、あるかもしれません。
 
シャロームは、最近の記事で、私のコメントを承認しないまま、他の人とは、丁寧語で返していました。その嘘吐きで隠蔽魔で削除魔のシャロームに、理路を弁えないで無条件に味方をしたのは楽山です。それ以降・・発言の信頼度はゼロになっているということです。
 
これは今、思い出しても恥ずかしくてたまらない。
胸がどきどきして苦しくなって、ご飯が食べられなくなるくらいの恥ずかしい。
恐らくは、この他にも、自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろうし、
ひたすら反省である…。
 
「恥ずかしく」「苦しく」「ひたすら反省」「自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろう」「ひたすら反省」、・・総て芝居だと思います。根拠は、芝居がかっている、ということと、言葉だけ言ってみても、今まで、これらに相当する心が表れたことはないからです。
 
今回、楽山が、この記事を書いたのは、前の記事を私が批判しているからでしょう。受けを一足飛びに、よくして、善人ぶる必要があったのでしょう。そういう理由と因果があります。
 
笑いと怒りしか感じない、その体質だけが今までの記事に表れてきた、楽山とシャロームは、書く記事も、上からの嘲りが怒りの裏返しになった大仰なものです。この辺も、シャロームの讃美口調に、よく似ています。
 
それに、「ご飯が食べられなくなるくらい恥ずかしい」そして、罪を認めるような話で、罪を認めているなら、今までにも、そういう話が出てきているはずです。それに、ボンヤリ言語による暗示の刷り込みをする必要など全くないのです。
 
人間にとって、罪や失敗のたぐいは、大小含めると、稀ではありません。今になって、山盛りの形容といっしょに、どどっと書いてくることこそ、怪しいと思わざるを得ません。
 
今さら、言葉だけ、謙虚を装っても、実質がないのです。芝居がかった、わざとらしさ以外、ずっと、私が見る限り、どこにも謙虚さは書かれていなかったのです。その体質から、急ごしらえのフィクションと受け狙いの芝居ではないかと思います。狼と少年に似ています。
 
例えば、シャローム、楽山が、悲しくて泣くシーンを想像できません。悲しくて沈んでいるシーンも想像できません。ずっと、人を食っている態度だったからです。私は、それで、批判を始めて、かつ、続けているのです。
 
つまり、心を痛めて、胸がドキドキ、ご飯が食べられない、などということとは無縁の尊大さを、示してきたのが、シャローム、楽山、易坊なのです。形容・修飾が多ければ、真実味が増すとは限らない例でしょう。
 
さらに、今回批判するために見てみると、末尾に、前は、わざとらしく「とほほ。」と書いてあったのを、「…。」に書き換えたようです。
 
とはいえ、以上は、もう一度言いますが、今までの経過を根拠とした推測です。弁明と反論をするかどうかは、楽山が決めることです。ただ、一時しのぎだと判断されたときには、今まで以上に、より巧妙で悪質な嘘を吐いた、という証拠になります。
 
楽山は、「罪はたくさんあるだろう」という罪を認める発言、これは、信仰の告白とは違って、今までにも、嘘として表れてきたことです。信仰にも良心にもよらずに、赦される必要を、あざ笑っているのです。真に受けないでください。楽山は、嘘を吐き過ぎました。
 
 
さまよう怨念

さまよう怨念
 
 
(2019年06月25日、同日一部修正)
(2021年10月05日、再録+)
 
 
 
  千巌山
 
昨日癒えた傷が
今日はまた開いて血がにじんでいる
 
千巌山へは永遠に行けないと思ってしまう
展望台の壁に書かれた落書きは
どこの老人会だったか
 
血の味は知っている
臭いに近い味だ
血が命の流れなら
今味わっている血は既に死んでいるのか
 
高い山ではない
車を降りてしばらく歩く
頂上付近が吹きさらしの
岩山になっている
来た人は皆吸い込まれていく
目をやられるのだ
 
自転車に撥ねられること数回
鼻血は数知れず
予感がすると必ず出てきた
運動場の隅の日陰で
子供のころ恨めしげに見ていたのは
 
松の木と岩
レストランも何もない
小さい展望台は
こぞって押しかけるには狭すぎる
 
群衆を拒む岩場の狭さから
天草五橋が全部見えるほどの広さに
視界を空や海に入れて
うっかり見渡せば
魂を置き忘れてしまうのだ
誰も景色になれない
 
抜いたはずの歯に
かけらか何か残っていたらしい
歯を磨いて歯肉をこすって
血まみれになった口内から
うがいをして吐き出せば
命を奪われた血の海が
渦を巻いて吸い込まれてゆく
 
この世の果て
 
以来
命を持って流れる血を見たことがない
 
 
  耐えてひるまず
 
虐げられたという怒りの前に
なだめるように墓標は立つでしょう
虐げたことは一度もないと言えますか
 
そして哀しげに見回すでしょう
恨みを晴らしたいのですか
それとも不正をただしたいのですか
恨みを晴らしたいのなら
怒りに身をゆだねるのが早くたやすいこと
 
しかしもし不正をただしたいのなら
いかなる闘いにおいても
人が人を切ることの恐れと罪を知り
できるかぎりの義を足場とするべきでしょう
 
怒りは怒りを生むだけだから
いかなる不幸を前にしても
最後まで耐え忍ぶべきことがあるはずです
あらゆる理不尽と不正と
差別と犯罪に対して闘うことを
勇気と呼ぶために
 
主イエスは言われました
「心の柔和な者は幸いである」
そして命を賭した柔和さを示されました
 
この身はたとえ死の谷を歩もうとも
墓標の石板に
それら勇者の名は刻まれる
人には悲しい戒めのように
 
ディスクリミネーション
クライム
耐えてひるまず
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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