アドラー教2
 
   アドラー心理学サロン(アドサロ)‏ @AdlerSalon
  (2019年09月28日頃でした
   今は、あるのかどうかも分からないです。)
    に関連して、楽山を批判。
 
 
アドラー教は、言葉を暴走させるのが好きで、それを欠点とは思っていない、ということが明らかになっています。楽山は、アドラー教の宣伝者でした。
 
人の噂話ばかりしているあなた、
そんなことしていないで自分の
人生を頑張ったらどうですか?
 
当たり前のことを言っています。
こういうところからカルトの誘導は始まります。
 
他人ネタでしか楽しめない人は
自分の人生に退屈している
他人の詮索をしてはあること無いこと
話をしたところであなたの人生は変わらない
 
まさに、楽山が、そうです。人のことばかり言いますが、評論家気取りだけで、自分を改善しようとは全く思っていません。ゆえに、何の役にも糧(かて)にも助けにもなりません。
 
楽しめず、退屈する人は、他人の詮索をするのでしょうか。楽山が、そうです。
 
それは、人生を変えるためでしょうか。楽山は、違います。何も変わりません。
 
他者の話から学ぶこともあります。
他者の話は、あること無いことと言っていますが、
あることを拾う作業が嫌なのでしょうか。
 
楽山は、他者の話を、何も受け取らず、無視して、言いたいことを言います。
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だからです。
 
他者の話で注意して心がけるべきは
他者が自己中心に言っていることは自分のためにならないこと、
他者が悪意を持っているときは聞かないことです。
 
他者の人生に向かって、よくもここまで端折って言ってくるものです。
先ず、この人が、歯切れのよさそうな言葉と、疑問への叱責と、
余計なお世話の数々を、やめるべきだと思います。
 
そんな暇に自分の人生を良くする
努力をした方が100倍は有意義
 
人生をよくする努力は大切ですから
人生を詭弁で悪くしそうな説教を見逃すことはできません。
少なくとも批判的に見る眼を持ち
批判する努力をするべきなのです。
 
人はそれぞれの世界を生きて
それぞれの幸せをつかむ
 
当たり前のことを言っています。飾り言葉です。
 
この、人それぞれ、という言葉を、楽山は、自己中の正当化に使います。
 
どんな仕事をしていようと
どんなことを好んでいようと
それは他人には関係は無いし
勝手に優劣を付けてはいけない
 
関係ない、というのは、ひどい言い過ぎですね。
否応なく、他人が関わったり、
他人に影響したりすることはあるでしょう。
 
多くの仕事や作業は他人に関係しています。
優劣云々とは別のことです。
何を吹き込むつもりなのでしょう。
 
人が人の価値を決める道理も
見下す道理も無い
自分の人生が上手くいかない
憂さ晴らしの為に他人に八つ当たり
してはいけない
 
当たり前のことです。飾り言葉です。
 
他者への必要な批判までも憂さ晴らしと言っている場合は、不当です。
 
あなたを傷付けるようなことを
言ったり、やってくる人は臆病者
他人の欠点を見つけ出そうとしたり
人を悲しませたりする人は前向きに
努力できない
そのくせ自分の弱さを悟られない
ように他人を見下して「自分は強い」
と錯覚している
 
そう言っている人は、恐らく、弱みを見せたことはないと推測します。
我が身を振り返らずに人をミソクソに言うのは偽善者です。
 
その人の中では、
臆病者、悲しませる、努力できない、
こういう人は価値が無いと言っているのでしょうか。
「自分は強い」と錯覚しているのは、誰でしょう。
 
幸せに生きる人はあら探しをしたり
人を傷付けたりはしません
 
おかしいですね。
彼の言う、幸せに生きる人、というのは
アドラー教徒のことでしょうけれど、
人を傷つける要素満載です。
 
それを気にするなと言うのが嫌われる勇気なのでしょうが、
嫌われるだけではなく、傷つけることになるでしょう。
その結果、誰とも、良い関係を結べなくなるでしょう。
 
食わず嫌いは損をしてます
食べ物に限らず人でもどんな事
にも共通することですが何となく
「〜嫌い!」は損です
よく知りもしないことを理解しよう
ともしないでそれを避けることは
自分の可能性閉ざしているだけ
苦手だと思っていたけれど実は
美味しかったり良い人だったり
することはかなり多い
 
だから、最初に、アドラー教のように、
気に入らないからと無視すると、
美味を見逃してしまうことになります。
 
どんな人生を送ってもいい
自分の人生は自分だけのもの
あなたが好きなように生きて
幸せならばそれが正解なのです
 
当たり前のようですが、
好きなように生きて幸せならば正解と言えば、
何をしても自分が幸せなら正解でしょうか。
犯罪者が聞いたら大喜びでしょう。
またアドラー教徒なら、もちろん喜ぶでしょうね。
こういう不備が、あちこちにあるのがアドラー教です。
 
人生は一度きりであり正しい人生
の定義は人それぞれ
多くの人達が世間の常識に合わせて
いますがそういう人で幸せに生きて
いる人は少ない
正解はあなたの気持ち一つ
でしかない
 
正解は個人の気持ち一つと言っていますが、
一般に個人を制御する道徳や社会正義や法を無視してよいのでしょうか。
 
発言の加減を弁えない人のようです。
こういうことを、すぱっと公開してしまうところに
ゆるゆるの自己制御不足を感じます。
 
人は自分に都合のいい理解しかしない
人間は正確な理解をしようとする
のではなくもっともらしいことを
盲信しないと生きてはいけない
 
言いすぎでしょう。
どこまで、人を画一的に決めつけるのでしょう。
 
言論が苦手の人なのでしょうか。
 
人は「理解できないこと」を恐れている
全てを自分の理解できるものに
捏造して自分を守っている
 
楽山のような一部の自己愛性パーソナリティ障害者や
カルトについては言えることですが
 
誰よりも、この作者が、
煽って叫んでいるような決めつけです。カルトらしい。
格言的に決めつけないと気が済まないのでしょうか。
 
他人が何を思い、何をするのかは
あなたが決める課題ではない
 
自分と他者が、ときに、影響し合うことを
完全に排除するならば、自己中にしかなりません。
 
人は他人のことになると好き放題言ってくる生き物です。
言いたいだけ言わせておいてあげましょう。
他人の批判に忙しい人は
他人を批判することで自分の価値を高めようとする
それしか無くて自分の人生が空っぽなのです。
 
これは批判に対する反論として理路がないですから、
しかも、拒否と否定しか書いていないから、
人生空っぽなどと言うのは、罵詈雑言の悪口になります。
 
批判は、間違っているところを指摘することで
必ずしも悪口ではありません。
また、批判の全てが悪口でもありません。
 
こういう記事のようなことを書くのは、
間違いを指摘されても無視する人で、
その結果、嫌がらせの悪口しか返せなくなるのです。
 
嫌われる勇気とアドラー教は言っていますが、嫌われていいのでしょうか。
嫌った人々からは機会が与えられなくなるでしょうけど、それでいいのでしょうか。
 
私は、嫌われないように、おべっかを使えと言っているわけではないのです。
嫌われてもしょうがない相手はいます。そういう人には、礼儀がどうのと言っていては、こちらが煙に巻かれているうちに失うものが多くなるばかりです。
 
そういう人に対してだけは、いくら嫌われても構わない、という意志を持って対峙するべきです。こちらも、相当のことを言ってきたのは、読んできた人はご存知だと思います。
 
しかしそれは特殊な個別の場合です。"嫌われる勇気"などと一括して勧めることは決してできないと言いたいのです。
 
自分のことで忙しいあなたには
そんな人に構ってあげる時間なんか無い
 
こうなると、殆ど、利己主義の勧めでしょう。
忠告や批判や議論を拒否するときの台詞です。
 
今日も言葉が暴走しているのがアドラー教です。
 
全否定と部分否定など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という自省が、まるで働かない人がいるようです。
 
アドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。日常の言葉で書かれたところが、常識的に、おかしいから、そういう指摘をしても、ちゃんと読んでから言えみたいな、反論ではなく、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
 
以前、こういうアドラー心理学の宣伝をしていたのが、楽山です。楽山の、言うには言うが、無反省、無責任、他者無視、単方向、自己中、という点が、アドラー教の特徴と一致しています。
 
今回の私の記事は、アドラー教を批判していますが、その宣伝をしていた楽山を改めて批判することが主目的です。両者は、口調は違いますが、中身が、とても、よく似ています。
 
"気に入らないことは無視しましょう" というアドラー教の教えを、そのまま実践して、おぞましい無責任男になっているのが、楽山なのです。
 
 
気に入らないことや不都合は無視

気に入らないことや不都合は無視
 
 
(2019年09月28日、同日一部修正)
(2021年10月09日、再録+) 
 
 
 
キーワード:無視
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
 
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  夜景
 
夜の街に集う幾千幾万の人影を
完璧に無視できる距離において
街の灯を愛でる人影は佇つ
 
(※ 佇つ(たつ、(まつ))
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍にいる
 
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
 
仮面の裏の口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
 
不眠不休で残務に追われながら
追いかけてくる札束に轢かれる人の、
 
死の床の痛みが撥ねて
繰り返す吃逆の
不眠の胸郭を呪うしかない人の、
 
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
 
あなたはいつも傍にいる
 
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか
 
いつも一緒にいながら
ついに認め合うことのない者たちの独りに
 
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
無視されながら殺されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
※ 吃逆(きつぎゃく、(しゃっくり))
 
 
 
 
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