楽山の体質的精神障害
 
 命の尊さと進化論
 2014年03月23日 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の楽山の記事です。しかしながら、最近言ってきたことと、基本的に、ほとんど変わりがありません。つまり、無反省と無責任をきたす体質的精神障害、即ち、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状が、ずっと前から、成長もなく、書いたものに表れ続けてきたということです。
 
楽山は、キリスト教と信仰について、何も勉強していません。そして、印象操作として、キリスト教についての浅薄で幼稚な偏見を並べて刷り込んできます。そして、神はいないとか、無神論の引用とかで、信仰というものを、信じ過ぎてはいけない・・などと言ってきました。
 
信仰は、浅く信じたり、深く信じたりするような、程度問題では語れません。信仰は、有無であり、その有無を最終的に裁くのは、神ご自身であります。他者について、偽物であるかどうかを云々することは、信仰の根幹に触れた場合だけ、人にも判断できることがあります。
 
しかし、楽山のような、詭弁を弄し嘘を吐く者が、信仰の欠片もないのに、信仰の根幹に真っ向から反する妄想や否定の発言を繰り返すならば、悪意ある反信仰・反キリストであることは、その言動から、他に考えられないことをもって、明らかになってきました。
 
もはや、嘘によって、発言の信用度もゼロとなっている楽山に対しては、精神衛生上の悪影響を避けるために、直接の遣り取りを断絶し、記事で批判を続けるしかない事態となっています。あざ笑いの悪意を隠しながら、丁寧語で誘ってくる楽山の口車に、決して乗らないように、お願いします。
 
このブログの批判記事は、約10年、楽山については約3年ほど、病質的偽善者の情報を広く知らせるために書いているものです。治療法がなく回復の見込めない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)について、今までに表れてきた症状を明らかにしてゆくつもりです。
 
進化論の本を読んでいると
生命について考えさせられます
今、自分が生きているということは
生命の誕生から、今の自分まで
一度も途切れることなく
生命がつながっているということ
 
神否定と、進化論礼賛を企んでいるようです。まず、神と進化という2つを対立させることが、良心を持たない楽山の、悪趣味と言えるでしょう。しかも、その悪趣味を、ボンヤリ言語の曖昧表現で言ってくるのが、楽山の無責任誘導の本性であります。
 
一見、何か、感動しているような書き方ですが、きわめて単純かつ短絡であることを見逃さないでください。この程度のことは、小学生でも考えることです。大人の、何かを伝えたいという真摯な態度ではないのです。人に対して、操ろうとすることしか考えない者の所業であります。
 
進化論を読まないと、生命の誕生や自分や他者の命のつながりが、考えられないのでしょうか。生まれ育って家族を見て、ふつうに勉強して、人の話を聞いて、考えることは可能です。そこで、わざわざ、進化論を持ち出し、反宗教へ誘導しようとすることが、楽山の気取りと陰謀体質なのです。
 
祖先たちが
天災、疫病、戦乱など
さまざまな危機を乗り越え
生き延びてくれたからこそ
今の自分がいるということ
 
このことは、宗教も、進化論も、関係ありません。宗教を考えなくても、科学を考えなくても、これくらいは誰でも思いますし、いい大人が、今さら、気づきましたという口調で語ったところで、少しも新しくはないことです。しばしば、楽山は、企みのために、大仰なことを言ってきます。
 
そうであれば
自分はこの生命を大切にして
次につなげなければ……ということ
 
小学校か・・と思うほど、発展性のない月並みな道徳を語る楽山です。実際は、こう書けば、感動してくれるじゃろ・・という狙いがあるのでしょう。楽山は、自分大事で、他者を大切にしておらず、平気で人を傷つけます。これを、「次につなげ」られたのでは、甚だ迷惑です。
 
人は霊であって
永遠の命を持ち
輪廻転生している
と信じていたころは
祖先のことはほとんど考えることはなく
肉体生命の維持を軽んじるところがありましたが
 
霊が分かるっぽい・・という自覚の楽山の妄想は、しばしば霊を強調し、永遠とか、輪廻とか、過去形ではない超常趣味として、今も変わり映えもなく、退屈に続いています。楽山は、むしろ、自分は特別だからと、軽んじるどころか、永遠不変に結びつけて妄想を語ってきたのです。
 
進化論に興味を持ってからは
祖先の労苦と
生命の大切さをより強く感じるようになったように思います
 
進化論によって、祖先の労苦が感じられるものなのでしょうか。進化論によらなければ、生命の大切さを強く感じないのでしょうか。それ以外では、例えば、生きていることだけでは、生きている姿を見るだけでは、生命が大切だと分かりにくいのでしょうか。
 
ふつうは、逆なのです。生きている命を通じて、命の大切さを思い、生命というものに興味を持つものなのです。いったい、どういう精神を持てば、このような、人間的直感のない、人間離れした生命観を書けるのでしょう。楽山の思考、ボロボロではないでしょうか。
 
さらに、いかに自分が他者を苦しめているかを、まるで感じない楽山が、「祖先の労苦」「生命の大切さ」など、感じているとは思えません。人を操るための、こう書いておけば、ひとかどの人物と思われるじゃろ・・という自己顕示欲の醜さだけが表れています。
 
真の謙虚さを持たない病的ナルシストの、おぞましさが、直感の鈍さとともに表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD、自己愛性人格障害、などと言われ、サイコパスと同系統の体質的病魔が、楽山を、このような、鈍感をごまかす三文芝居へと導いています。
 
 
 
 いろいろな信仰
 2014年03月30日 楽山日記(LD)
 
 
気持ちの悪い文章を書いてくる楽山です。宗教と信仰は、小学校の算数ではないのだから、幼稚な決めつけと未熟な理路で語れるものではないのです。自己愛性人格障害のために、身の程を知らない、深い思考も感受も出来ない、ということの悲劇が楽山なのです。
 
聖典のことばは
不合理なものも
そうでないものも
すべてそのまま事実である
とする信仰
 
聖典の読み方も、まるで知らない楽山に、信仰の合理・不合理を語る資格はありません。このように、不合理という言葉で、宗教と信仰を、平気で表す者には、悪意はあっても、洞察はなく、敵意はあっても、直観はないのです。
 
不合理が、間違えた算数の計算のように、不合理のままなら、人が受け取ることはないはずです。思考と情緒の広がりを全く持っていないのが楽山であり、ゆえに、何を書いても、通念を超える理解に結びつかず、かさばるボール箱のように、煩わしさを積み重ねてゆくだけなのです。
 
聖典のことばのうち
不合理なものはすべて
何らかの象徴、比喩、たとえ話などである
とする信仰
 
今までの発言から、「象徴、比喩、たとえ話」なども、楽山は理解していませんし、受け取って考えることも出来ていません。いったい、何を読解したつもりで思い上がって、語ろうというのでしょう。思い上がった小学生が、そのまま大きくなって、髭だらけの有頂天になっているだけなのです。
 
上の二つを折衷する信仰
 
宗教と信仰のパターン分類しているつもりでしょうか。それは、宗教と信仰について、少しでも分かっている人がすることです。通念的に不合理と断定するだけの楽山は、未熟で低劣な精神のままであり、単純に短絡して、図々しく書いてくること以外、何も出来たことがありません。
 
一つ目の信仰は
純粋性という点では優れているのだろうし
二つ目の信仰は
信者の範囲を広げる効果があるのだろうし
三つ目の信仰は
宗教と現実との間でバランスをとるものだろう
 
直観と洞察の欠如は、このような安易な分類の仕方になるという例です。「優れて」「効果」「バランス」・・このような言葉で、宗教と信仰を表すこと自体が、楽山の、思考障害、妄想前提、劣悪、無効、アンバランスを表しているわけですが、楽山だけは、気づかないのです。
 
宗教と信仰を、オモチャか文房具のように扱って、宗教人と信仰者の気持ちを何も理解できないのに、分かったつもりになって対象化して、独りだけで満悦してきたのが、楽山の人生なのでしょう。批判されないために、ボンヤリ言語の曖昧さで化粧した文章は、悪臭と痒みを催させるだけです。
 
おそらくこの三つ目の信仰が
もっとも無難だろうけれども
どの辺りを視点にしてバランスを取るかは
難しそうではある
 
そして、物でも扱うように、「バランスを取る」「無難」などと気安い見方に短絡し、最後は「難しそうではある」などと、責任逃れを書いて終わりです。人の迷惑を考えないで、宗教と信仰という真実の追求に、厚かましく突っ込んでくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
楽山は、未熟を自覚できず、反省もしないがゆえに、学習と成長ができないのです。ここが、治らない限り、まともな言論者には、決してなれません。なのに、病識欠如の無自覚で、勝手なことを書いては、ますます、信仰からも、そして、人間としても、的外れになってゆきます。
 
 
ボンヤリ精神のトンデモ世界観

ボンヤリ精神のトンデモ世界観
 
 
(2021年10月13日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
 
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
 
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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