楽山は自己中の加害者
 
 宗教と自由
 2014年03月30日
 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の記事です。楽山の宗教についての経験には、楽山の自己愛性人格障害によって、自己中が、歪んだ思考を生み出してきたことが分かる記事だと思います。ゆえに、楽山は、今、カルト被害者ではなく、加害者となっているのです。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも、「~ねばならぬ」が気になっていた
信仰は絶対に手放してはならぬ
利他行を実践しなければならぬ
真理の書籍を読まねばならぬ
反省しなければならぬ
伝道活動に励み、教団の発展に寄与しなければならぬ
波動の悪い書物、漫画、映画などを見てはならぬ
波動の悪い場所に近付いてはならぬ
波動の悪い人物と交際してはならぬ……
 
「~ねばならぬ」だけで出来ている宗教と信仰は、大方、偽物です。信仰は、まず、それまでになかったような、癒しや、感動や、はっとするようなことを受け取って、考えることから始まります。
 
それが、忘れられず、一生の支えになってほしいから信仰者になるのです。ですから、誰にも強制されることはなく、また、現世的ご利益の誘い文句に乗ることでもありません。
 
楽山は、カルトしか知らず、それ以上に、自分がカルト教祖になりたいがゆえに、既存の宗教を否定することから始めているようです。
 
そのための批判が、安っぽくて、いちゃもんに過ぎないことから、楽山は、精神の詐欺師、ペテン師として言動するしかないのです。「~ねばならぬ」だけを言ってくるのは、それは宗教でも信仰でもありません。本当の信仰を持たない楽山が、欲望から、他者の信仰を呪っているだけです。
 
まさに、楽山は、楽山自身の自分信仰以外を、「~ねばならぬ」教だと言って、貶めるという暴挙に出ています。では、楽山は、何を救いと言っているかというと、信じないのもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などと、いい加減で、何の助けにもならないことを言ってきたのです。
 
信仰を持っていたころは
四六時中、上のような思いを抱いていたのだった
ただそれにも関わらず
自分は自由であると感じていた
 
楽山は、恐らく、自分信仰となっている自らの、霊能者妄想から、自由になったことはないと思います。似たようなことばかり書いてきたことが根拠です。それは、自由ではありませんし、また、今の楽山の精神も、病質ではあっても、全く自由とは正反対なのです。
 
けれども
信仰から離れた今は
信者だったころの自分が
あれほど窮屈な生活をしていながら
自分は自由だと感じていたことが不思議でならないのである
これがマインドコントロールというものなのだろうか。
 
楽山は、HS信者だったのが本当かどうか知りませんが、アドラー教の宣伝者ではありました。そして、何より、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)がもたらす自分信仰から、全く離れてはいません。カルトから自分信仰へ・・似たようなものなのです。
 
そして、楽山は、今、自由のつもりかもしれないが、決して自由ではありません。その自由のつもりの発言が、無反省で無責任な自己中の勝手な発言となり、誘導となり、他者の自由な思考と感性を奪っていることが根拠です。そのことは、ひどくなれば、たしゃの人格破壊につながります。
 
楽山に、既に起こっている人格破壊は、次には、楽山からの誘導によって、他者の人格を破壊するでしょう。ボンヤリ言語で、偽りの三文芝居で、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、かつ、非を認めないという、ケダモノのような自己中の本能によって、人を巻き込んでゆくでしょう。
 
楽山は、自らの妄想によって、他者をマインドコントロールするほうであり、その手段として、刷り込み、詭弁、虚言、婉曲的なボンヤリ言語、ときに、同情を引くためのトホホ言語などを用います。楽山に、本音はなく、一日中、自己正当化の言語に、駆り立てられているのが現状です。
 
つまり、尊厳を守るための正常な自己愛ではなく、執念のような訂正不能の妄想的自己愛・自己中となって、思慮ではなく、本能のように言動しているのでしょう。こうなってしまうと、元に戻ることは難しいと思います。誰も、楽山に関わることのないように、批判を続けるしかありません。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも教祖のことば(教義)を基準にして
考え、行動していた
教祖が
善とするものは善とし
悪とするものは悪とし
正とするものは正とし
邪とするものは邪とし
真実とするものは真実とし
存在するとするものは存在するとそのまま信じていた
 
このことは、事実であれば、よほど、自主性・主体性のない人間だったことを意味しています。そのことを、反省するのではなく、全面的に、宗教のせいにしているところが、楽山の病質を表しています。あらゆる不祥事を、人のせいにする、これが、自己愛性人格障害の特徴です。
 
また教祖が
当教団は、多くの有識者から高い評価を得ている
信者でない者はこのようなものである
霊とはこのようなものである
霊界はこのようなものである
唯物論者とはこのようなものである
悪魔、悪霊とはこのようなものである
生まれ変わりの仕組みとはこのようなものである
菩薩、如来とはこのようなものである
あなた方の目的と使命とはこのようなものである
法とはこのようなものである
真理とはこのようなものである
云々と言えば、それらもそのまま信じていた
 
このように、人の言うことをそのまま信じることが、ある意味、異常であります。自分で考える意欲と能力が乏しかったことを意味しています。それを、楽山は信仰と呼んでいますが、真の信仰のあり方からは、ほど遠く、受動的で軽率な人格という他はないのです。
 
自我が弱い分、言われることを鵜呑みにして、今は、よくなったような言い方をすることこそ、自らを省みない者の成り行きなのです。正常な人間には、反発力があります。その大方は、反省し、自戒し、学習し、成長につながります。楽山には、それがないので、人のせいにします。
 
この記事に、一貫して見られるのは、教祖が悪い、他者が悪い、自分はその犠牲者、という一方的な被害者の立場であり、このことこそ、自己愛性人格障害の特徴です。自分が、迂闊だった、未熟だったという自省が働かず、ゆえに、次は、楽山自身が、他者を犠牲にしてゆくのです。
 
 
 
 信仰と知性、判断力
 2014年03月30日
 
 
楽山の、今につながるところの、無反省・無責任がもたらす災いが表れています。全てを、他者のせいにして、他者を否定し無視することで、結局、新たな、自分信仰というカルトに縛られることになります。宗教は気休め程度がよろしく信じ過ぎるのは災い、という反信仰の態度です。
 
実際、楽山は、信じたこともないキリスト教を、否定してきました。実に、傍迷惑なことですが、そこには、自己中という病質が働いているとともに、宗教の一部の災いによって、宗教全体を見境もなく否定するという短絡の詭弁も表れているのです。
 
ようするに
信仰をもっていたころの自分は
 
楽山は、思い込みが訂正不能で、全か無かという極端な病質の、短絡した思路だけであり、健全な信仰を持っていたことなど、一度も、なかったと思います。そして、病質から、誰かのせいにしたくて、キリスト教を、やり玉にあげてきたのです。それが、楽山という異常な体質の人間です。
 
教祖のことば(教義)をそのまま信じるばかりだった
それで自分は真理、真実を知っていると満足していた
 
教組の言葉を離れても、基本的に、今も姿勢は同じです。ゆえに、今は、自分の妄想を信じ込んで、他者に影響を及ぼすことで、自己満足しているのです。つまり、自己愛性人格障害の自己中は、むしろ、自主性を育てず、他人格を支配しようとすることで破壊するということです。
 
だから、事実を確認し、論理的に思考することは
しなかったし、できなかった
その必要性も感じなかった
 
だから、楽山は、確認、思考、など、まともに、したことがなかったのでしょう。今も同じです。代わりに、自己愛と自己中から、人のせいにするということが繰り返されてきたのでしょう。過去に必要を感じなかったのではなく、今も、必要を感じず、平気で宗教を否定しているのです。
 
このような信者時代を振り返ってみると
つくづく自分にとっては、
信仰というものは
知性、判断力を鈍らせるものだったと思う
 
そして、総てを、信仰のせいにして、宗教と信仰を、知性と判断力を鈍らせる元凶のように言っています。これが本音です。
 
知性と判断力は、楽山には、今もありません。他罰だけの精神には、知性は育たないからです。つまり、いちばん自分を生かすために必要な、反省力が、楽山にはないのです。
 
楽山のことを、なんとなく良さそうな人だと思って付き合っていると、病的な疲労から、精神が病的に摩耗して、奴隷か廃人のようになり、楽山と同じことを言うようになるでしょう。完全に断絶して、人格も言葉も受け入れないようにしてください。自分で学習し考えるようになってください。
 
 
全部人のせい?

全部、人のせい?
 
 
(2021年10月19日)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
1:2
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。
 ・・・
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
1:18
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。
 (伝道1:17-18、旧約聖書)
 
今のところ、特に、神の知恵を、人の知恵で追いかけて、超常のことばかり考えていると、憂いが増し、風を追うような空しいものとなる、というような意味に受け取っています。
 
 
 
  老いと病
 
三十代から始まる
ひとこと言われた後に
続く笑いが気に掛かる
自分は照れ笑いしているくせに
 
白髪が目立ってくる
事故で入院する
白髪がごそっと増える
面(つら)の皮が厚くなる
鼻の皮が硬くなる
 
放屁する場所を余り構わない
放屁自体が増えてくる
腸のグルグルが増えてくる
便秘も下痢も増えてくる
小便も近くなる
間に合わないことがある
尿漏れパッドを買ったりする
おむつも買おうかと思ったりする
 
すっかり白髪頭になってしまう
一つ難しいことを覚えると
二つ易しいことを忘れる
覚えた一つも忘れる
 
ひとこと言った後に
続く笑いに気づかない
ひとこと言われた後に
続く笑いに笑っている
気に入らないのに笑っている
いつまでもいつまでも笑っている
 
以上に気づいて黙ってしまう
 
人のせいにしたくなる
病気で入院しない
いつまでもいつまでも黙っている
わけにいくか!
と何か言い始める
 
 
  うばわれて
 
てんは にぶつを あたえず
てんは いちぶつを あたえて
てんは いちぶつを うばっていく
むねんの こころ いかばかり
ないても
いかっても
もどってこない
 
てんは かえりみて あわれみ
なごりのようなものを のこす
 
きづいた ひとだけが
きずを しり
いやされる ことを しる
うばわれて
うばわれて
なにも なくなっていく
ときの なかで
ふりそそぐ ものを うけられる
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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