楽山の誘導2
 
 真理を語りつくした宗教は存在しないということ
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。宗教は、信じれば真理が分かるんじゃろ・・という偏見が、妄想的に訂正不能です。
 
「真理を語りつくした宗教は存在しない」・・宗教は、人として生きるためであって、人は、神ではないのだから、完全な真理を知ることはありません。だから、このことで、宗教を批判することは、全く無意味なのです。何を、評論家気取りで、言い得たつもりになっているのでしょう。
 
最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
 
神を信じない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想に都合がよいかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
 
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
 」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
 
そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。楽山は、他者の論争を観戦するだけだと思います。
 
真理を尽くしたのが完全な宗教などという先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。楽山は真っ当な理路を持っていません。
 
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を完全には知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。絶望した人が、ひとかけらの真実によって、生き直すことこそ、復活であり、信仰なのです。楽山は何も分かっていません。
 
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受け取ったかということです。楽山は、何も受け取っていないようです。
 
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自己顕示欲から、自分が好きなように言って真理だと言いたがっており、実際は無知で無恥の発言を正当化するために他ならず、言い張るための黒いエネルギーにしたいからに他なりません。
 
楽山の言うことは、まず、知性の常識と良心の直観に反しています。楽山の言は、良心と常識を持っていないのに、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込んで、だますために語る言葉ですから、決して信用しないでください。偏った人格からは、偏見しか生まれてこないのです。
 
「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
 
それ以上に「ヘンテコ」なのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
 
楽山は、教義を知っても、聖書を読んでも、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事とコメントから明らかになってきたのです。楽山こそ、神を完全に知らないと気が済まず、実際は何も分かっていない見当違いで、神を否定してきたのです。
 
信仰というのは、それを与えられる機会を得たときには、そもそも、苦難があり、それでも良き人でありたい、そのための勇気と平安を求めるという良心の欲求によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
 
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。・・楽山は偏見だらけです。
 
こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
 
楽山は、「この世」と「宗教」という別の話を、無理に並列して、「宗教を超えた世界」というのを捏造しています。これは、どう考えるんだろう、だけではなく、何も考えないで、いちゃもんを書くだけで、気持ちがよくなる症状なのです。
 
宗教についての話を自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と学習不能と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって警戒を要する人は、むしろ、珍しいのです。
 
信仰者は、陶酔気分で誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えずに思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまって、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくこともあるでしょう。キリスト教においても、決して小さい問題ではありません。
 
むしろ逆に、楽山こそが、多くを隠しているようですが、大方、妄想化に当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることも人間的に共感することも出来ないのです。
 
宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
 
自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良い字面ばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。記事を、どれだけ書いても、何の糧(かて)にもなりません。
 
楽山のように無反省で訂正不能になると、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。自己愛性パーソナリティ障害NPDによるものだと思います。
 
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。そういうことを平気で書いてくるのが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質の症状です。
 
あまりに酷い記事が続くので、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者および批判対象を明示するようになりました。遣り取りしてはいけない相手です。コメントなど遣り取りすると、とても異常な疲労を受け取ることになるでしょう。
 
楽山の偽善性を批判できるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針しかないと思います。
 
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようにもなるでしょう。
 
真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことをそのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、判断する必要があります。
 
 
理路も共感もない誘導

理路も共感もない誘導
 
 
(2020年08月05日)
(2020年08月13日、一部修正)
(2021年10月29日、再録+)
 
 
 
  悪魔とは
 
悪魔とは蛇の誘惑の微笑か
欲望から欲望へ渡るための偶像か
突然襲い来る不幸の類か
 
知らない ただ少なくとも
悪魔とは何か
それは今 私の中に満ちているものである
と考えてみる必要があるだろう
 
人と交わる席において
私は悪しき謀(はかりごと)であり
孤独の椅子において
私は魔と友人である
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて真顔で盃の宴に加わり
いつか笑えず泣けず顔を背けた
私は私を他人のように呼んだ
 
私は私が招いた出来事を
私に出入りする何者かのせいにした
 
例えば幸運は天使の目録に記(しる)し
災難は悪魔の罪状に加えた
私は他人の魔女狩りをした
私は自らの悪魔狩りを試みた
 
それらは到底できることではなかった
私に関するかぎり
私は私以外の悪魔を実感したことがない
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀(はか)り
私が手に入れ
あるいは失ったものから
 
私を誘惑し
私を陥(おとしい)れ
私を快楽(けらく)に酔わせ
私を責め呵(さいな)むものから
 
どうかお救い下さい
 
そして私を裁き
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が俯(うつむ)いて
裁かれる姿勢で受けられますように
言い渡される宣告の前に
跪(ひざまず)かせて下さい
 
せめてその時には
私の悔いが全て見えますように
できればその時まで
知る時まで
見る時まで
ずっと
ずっと
御前において
跪かせて下さい
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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