楽山の霊能遊び
 
 霊言と、本人の言葉との関係(傲慢、蔑視)
 2014年11月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、数日、記事を書いていないと思っても、また書いてきて、また批判するということが、最近もありました。書かずにはおれない自己顕示欲の体質のようです。
 
頭ごなしに言うのでなくても、新しい人からの、好意的に見える誘いには注意しておくべきです。例えば、読んでいて、どうも、心に響くところがない、こっちの話を聞いていない、・・などと思った相手は、要注意です。
 
かなり前の楽山の記事ですが、有名人も、楽山が扱うと、オモチャ以下に悪用され、もてあそばれるようで、そういうところが、楽山は、何も変わっていないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には成長がないのでしょう。
 
*高慢、蔑視
民主主義っちゅうのは、建前や理想は美しいが、本音は、「こんなやつらに頭下げないかんのか」というのが、まあ、本心やろ。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年3月17日初版第8刷、p.34)
 」
この霊言を読んで思い出すのは、大川隆法氏が街頭演説で語ったとされる言葉である。
 
楽山は、世辞と芝居以外では、人に礼を取ることはありませんでした。世辞と芝居で、やさしい人柄という好感を得て、丁寧語で、誘導してゆくというやり方です。その証拠となる詭弁と嘘が、私の記事に、たくさん残っています。高慢・蔑視は、楽山の心性です。
 
「大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』」というのは、いわゆる霊言の類でしょう。楽山は、HS批判者であるはずが、ORの発言を信じているらしいことが表れています。松下幸之助を実在のように扱っているからです。霊言を信じ、霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山が表れています。
 
人間様に投票で選ばれるなんて、もう神様、仏様、頭から、もう火を噴きそうなくらい、腹の立つことではございますけれども、これが、時代が時代であるので、こういう時代もあるかな、と、今思っておるんです。
 <21日街宣Part-2の総裁先生街頭演説 高松市内>
 」
どちらも、その根底には同じような発想が潜んでいるように思える。どうしてそんなに傲慢になることができるのか、人を見下すことができるのか、不思議だ。
 
これこそ、楽山に対して感じていることです。実に白々しい。自分が言われそうなことを、他者に向けている狡猾さと矛盾が、楽山には平気なのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDならではの特徴なのでしょう。人の振り見て我が振りを直さず、嘲笑って上機嫌な楽山です。
 
*追記
次の言葉を見つけたので、追記しておく。
民主主義ってのは、基本的には、〝阿呆の祭り〟なんだよ、君。  
(大川隆法『龍馬降臨』幸福の科学出版、2010年、p.194)
 」
民主主義の根底には、多数決には神の意志が現れるという考え方があると聞いたことがあるが、大川隆法氏にも、大川隆法氏に降りてくる霊にも、そんな考えはまったくなさそうではある。
 
多数決に神の意志が表れるとは限らない、というのは、常識であります。多数は、流される場合があるということです。ゆえに、警鐘や批判が、言論の自由として、大切なのです。楽山は、ここでも、自らの知識の欠陥を露呈しています。
 
楽山が、勉強したつもりでも都合のよい言葉しか受け取らず、学習になっていないことが表れています。楽山には、辻褄合わせだけのために、部分で全体を語る、全体の曖昧さで部分を決めつける、というような詭弁が随所に見られてきました。
 
*追記
下の言葉を見つけたので、メモしておきたい。
実際に大臣をしている人たちも、テレビに映ったら偉く見えるだけで、大したアイデアなど持っていないのです。
(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.283)
 」
氏は、一般大衆に対してばかりでなく、地位、名誉のある人物に対しては、この手の発言は度々あるようだ。現代では政治家だからといって無条件に尊敬されることもないだろうけれども、それだからといって、これだけ無造作に人をバカにした発言をし、それを活字にするというのは珍しいのではないか。
 
楽山は、鋭さがなく、無造作に、人をバカにして、下に見て、教える態度、評論家気取り、インテリ気取りを見せてきます。嘘と詭弁の荒らし的な本性を、ずっと隠しながら、誘導してきたのです。結果として、他者の人生に、恐ろしく無駄な疲労の時間を負わせてしまう病質なのです。
 
 
 霊言と、本人との関係(個人崇拝)
 2014年11月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、霊能者気取りと、雑な筆致から、今までのことも併せて、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしい自己満足の文章になっています。
 
*崇拝を求める高級霊?
わしは、ほんまは神社ぐらい建ててもらわないかんと思うとる。軍人さんとかは、東郷神社とか乃木神社とか建っとるけども、松下幸之助神社ぐらいは、ほんまは、あってもええんや。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.118)
 」
とある方が指摘されていたのだが、実はすでに、松下幸之助の社はあるらしい。検索してみると容易に出てくるが、どうやらこのことは、松下幸之助(霊)は知らなかったらしい。
それはともかく、自分を祀れという発想は、下記の発想に似ているようだ。
 
こういうことは、宗教を語る上で重要なことなのでしょうか。楽山は、茶化しているだけではないのでしょうか。松下幸之助は、自分を神としていたのでしょうか。神社が建つくらいは、貢献に報いるための記念碑的なものではないのでしょうか。無分別に話を複雑にしています。
 
このように、本筋ではないところの、ゴシップのような枝葉末節のエピソードを、宗教の重要度の分け方も考えずに、並列してくるのは、いちゃもんの言い方なのです。ゴシップで笑いたい楽山らしい書き方ではありますが、「発想に似ている」などと言うのは、論旨を乱すだけです。
 
池田大作守護霊 ああ、抑えてるんだ。「信濃町の駅を降りたところに、三十メートルぐらいの池田大作像を建てて、みんなに参拝させたい」という気持ちは、もう十二分にあるよ、だけど、理性で抑えてるんだ。
(大川隆法『宗教イノベーションの時代 目からウロコの宗教選び②』幸福の科学出版、2010年、p.258)
 」
松下幸之助(霊)と、池田大作守護霊が、似たような発想をしているところはもちろん、池田大作守護霊の方が、松下幸之助(霊)よりも、自制的であるというところがおもしろい。
 
「おもしろ」がっているようだが、松下幸之助が自分を拝めと言ったのでしょうか。楽山のフィルターを通すと、話の軽重が、ごちゃごちゃになり、有名人を、不必要に侮辱することになるでしょう。楽山自身の、楽山大社にでも祭られたいのに・・という妬みでもあるのでしょうか。
 
こういう人の悪口の類を、面白おかしく揶揄することで、楽山は、不遇の身を慰めているのでしょうか。自慰行為を人に見せて楽しいのでしょうか。ふつうは、もっと、自身のことを省みて考えるものです。楽山は、特徴的に、他者のことを云々することに執着し続けているのです。
 
ちなみに、大川隆法氏は、自分の写真や、自分そっくりの像をつくって信者に拝ませていた(る)という。大川隆法氏も、松下幸之助(霊)も、池田大作守護霊も、それぞれ別人格のはずだが、三者ともに、人々に自分を拝ませたいと考えているらしいことは、とても興味深いことである。
 
宗教の二人はともかく、松下幸之助は、実業家ですから、「自分を拝ませたいと考えて」いては務まらないと思います。そういうことも考えずに、極めて、粗暴に、有名人を、ひとまとめにしてゆく楽山の心性のためには、神社どころか、墓も立ててもらえないのではないかと思います。
 
松下幸之助の「(霊)」とは、どういうことでしょう。証拠が示せないから責任逃れのつもりではないでしょうか。どんなに、人を侮辱しても、傷つけても、人に疲労と徒労を与えても、罪悪感を感じず、恥を知らず、平気でいられる自己愛性パーソナリティ障害を、楽山は表しているだけです。
 
*追記
大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想をしているらしい原因については、いろいろと考えられる。
・大川隆法氏が行っている霊言とは、大川隆法氏本人の考えを発表する際の表現形式にすぎないため。
・大川隆法氏と霊人たちとの意見が、たまたま偶然に同じようなものだったというだけのこと。
・霊人たちが霊言する際は、大川隆法氏の言語中枢を使用するのだが、そのとき、たまたま霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまうことがある。そのため霊人たちと大川隆法氏との考えが似たものになることがあるのかもしれない。
 
「大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想」・・と、本人と、霊言で語られた霊を、同じに扱っている楽山です。ORの「表現形式」と言いながら、「霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまう」・・と、楽山の超常心霊信仰?を、あらわにしています。
 
その他、いろいろな可能性が考えられるが、こういう場合はもっともシンプルなものが正解であるような気はする。
 
楽山が「いろいろな可能性が考えられる」のに、「シンプルなものが正解であるような気」がするのは、シンプルなものしか受け取れないからでしょう。根拠もなく、自分の欲するものが正解だと言って、願望と真理を混同している楽山です。
 
楽山の文章は、平易な顔を持ち、曖昧に婉曲にボンヤリした筆致で書いて、時々、専門用語を入れて、格上げを謀り、読む人が、反発しないように、謙虚芝居や、トホホなどと、恥ずかし遊びを入れてきます。正直さが皆無です。
 
楽山の文章は、全体に締まりがなく、姑息的に、その時、その場の、良い気分を求めて書いてきます。総じて、中身のない無駄話であり、真に受けると、異常な疲労が待っているだけの毒性の高い文章です。さらに、一切、責任を負わず、反省もしません。自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
楽山のオモチャ

楽山のオモチャ
 
 
(2021年11月02日)
 
 
 
  自由の祈り
 
涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
 
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
 
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
 
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
 
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる方向を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。それが、ふつうに、"身の程を弁えて"、即ち、能力と適性に応じて、進路を判断するということです。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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