聖霊
 
 
父・子・御霊(みたま)、神・イエスキリスト・聖霊、という三位一体の三位について、私が、いちばん不可解なのは、聖霊であります。何をやっても、聖霊の導きなら正しい、ということになりますが、聖霊の導きかどうか、どうして、三位でもない人間に分かるのでしょう。
 
「昨夜も聖霊と話しました」などという話をネットで読んだことがあります。正直言って、超常神秘信仰からの自分信仰の始まりではないかと思っています。
 
(ヨハネによる福音書)3:34
神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
 
自分は聖霊によって神の言葉を語る・・などという者が出てきたら、語る中身によって見分けるほかはないということです。実に気楽に、聖霊について語る者もいました。その者は、結局、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいと言って墓穴を掘りました。
 
しかも、その者は、悔い改めは神が与える、などと言い逃れをしてきました。シャロームshalom という偽牧師ですが、芝居好きの楽山の成りすましではないかとも疑っています。
 
(マタイによる福音書)
12:31
だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 
12:32
また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
 
聖霊を語るのではなく、聖霊を騙(かた)る者、即ち、聖霊を汚す者は、また、同様に、ゆるされることはないのです。このように、神秘は、人間離れしているようですが、人間としての信仰を持つ者への恵みであります。便利だからと、だますのに使えば、人間離れがバレるのです。
 
(ヨハネによる福音書)14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
 
これは、はっきり言って、信仰があれば・・ということです。聖霊が、聖霊が、という向きには、便利でしょうけれど、その言の浅はかさは自明になるということを含む導きという前提なのです。
 
(ルカによる福音書)
11:12
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 
11:13
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
 
12節は、極端な比喩です。極端に言わないと印象に残らない時代の話であります。キリストが説教している相手は、特に知恵が豊かでもない民衆だったからです。それに比べて、子に対する親の愛を説いている13節は、今の時代でも理解は困難ではないと思います。
 
つまり、私たちは、罪人、悪い子、なのです。キリスト者になったら、完全になれる、いい子になれる、正しくなる、・・などという信仰ではありません。信仰は、悪い子が赦されるために、与えられるものです。悪い子とは、悪い子であること自覚する者という意味です。
 
(ルカによる福音書)
12:11
あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。 
12:12
言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。
 
試練、迫害、受難、殉教という、地上での試みが語られています。問い詰められても恐れることはない、という教えであります。努めて出来ることをしている人間に対して、何よりも、聖三位は、執り成しの聖三位であるということです。
 
殉教の死を恐れないでいられるかは、中心課題ですが、何も恐れずに死に臨める人はいないでしょう。だから、キリストも、弟子たちの「肉体が弱い」ことに共感し、思いやっておられます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:37
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
26:40
それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。 
26:41
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 (マタイ26:37-41、新約聖書)
 
キリストの「悲しみ」は、弟子たちと別れる十字架の時が迫っているからでしょうか。それとも、弟子たちや私たちと同様に、肉体が殺されるだろうという恐怖でしょうか。私としては、はっきりしなくてもいいです。
 
 
神聖への恐れ

神聖への恐れ
 
 
(2021年11月05日)
 
 
 
 聖書抜粋
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇88:11-13より
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに
宣(の)べ伝えられるでしょうか。
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
同141
わたしは取るにたらない者で、人に侮(あなど)られるけれども、
なお、あなたのさとしを忘れません。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山は、また、成り立たない記事を書きました。これが、自己愛性人格障害の訂正不能の症状なのでしょう。嘘がバレて、他に何も出来ないときに、嘘と詭弁を積み重ねることしかできない楽山です。
 
私たち信仰者が、信仰について何かを語っても、それは、楽山には、何の関係もありません。また、楽山が、何かを語っても、それは、信仰とは、何の関係もありません。
 
 
楽山ブログに見つけたコメントの再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。ふつうのことが、出来ないのです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
その報いのように、書けば書くほど、くずれてゆく楽山です。それもそのはずで、ふつうなら、恥ずかしくなって、やめるところを、何も気にしないで、続けるわけですから、何も良くならないまま、無秩序の闇に向かうのは当然のことなのです。
 
 
感情を語ることと、感情的になることは、真逆といっていいほど違います。感情的になると、感情が主体となり、感情を対象に出来なくなって、そこから語ることが全て感情によって歪められたものになり、冷静な意見を語れなくなります。
 
人間の反省と思考を促進するのは、しんみりとした悲しみです。そこで、人間は、自他について、否応もなく、悩むけれども、悲しみの同伴によって、深く考えるのです。悲しみを糧(かて)としないで、悪いものとばかり思う向きは、恐らく、浮かれた喜びだけを求めるようになるでしょう。
 
 
楽山は、恐らく、悲しみの情がなく、笑いと憎しみの感情しか育ててこなかったのだろうと思います。丁寧語で飾って、言い得たつもりでも、言ってることの中身が、高慢に上から見下ろし、相手が弱るのを悦ぶという満悦に生きています。世辞の丁寧語があってもなくても同じです。
 
楽山は、広がりのない思考と深みのない感情に漫然と生存して、努力を怠り、分かっているという慢心からの短絡で主張し、まともに動くことも出来ないまま、中空を偏平足で右往左往しているに過ぎません。だから、事態を把握できず、恐れを知らずにいられるのです。
 
 
 
 
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