安っぽい楽山
 
 「信じよう!」と決意するとき
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、今も昔も、楽山は、信仰でも何でも、分かっているふうな口をききます。実際には、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、何も分かっていないことが明らかになっています。信仰は、雰囲気のように、いい加減なのが本物と言いたいようです。全然違います
 
信仰には、およそ二種類ある。「信じよう」という意識のない信仰と、「信じよう」という意識に支えられている信仰である。
 
「信じようという意識のない信仰」は、大方、文化や習慣の一部でしかありません。「信じようという意識に支えられている信仰」は、意識というより、強迫観念のように、人を縛る可能性があるでしょう。なお、楽山のように、自己愛と自己中が、訂正不能にあるのは、信仰ではなく病理です。
 
本当の信仰は、気づきであり、惹かれることであり、縁を感じることであり、ゆえに、信じないではいられないものです。楽山は、信仰を全然知らないので、薄っぺらな先入観から、口から出まかせを言って、もっともらしく見せているだけです。自分が魅力の欠片もないからでしょう。
 
はっきりいって、前者の信仰は安定しているが、後者の信仰は危ういところがある。意識的に、「信じよう!」と決意するということは、そうしないではいられないほどに、信仰が揺らいでいるということだから。
 
信仰を、反応か状態のように、安定などという言葉で表現している楽山は、信仰の賜物を何も知らない人です。このように、心の無い者は、信仰という抽象名詞の内実について、何も語れないのですが、楽山の自己愛性人格障害は、言葉を繕って、語ったことにするのです。
 
乾いた砂が、手からこぼれ落ちるように、信仰心が心からこぼれ落ちようとしているからこそ、「何があっても、信仰は失わないぞ!」「この信仰の綱は、絶対に放さない!」などと強く決意しなければならなくなっているのだ。
 
信仰心が、心の無い楽山にはありません。「何があっても、失わないぞ!」などは大根役者の三文芝居です。知らないのに、知ってるつもりで語ってくる醜さは、ホラーです。
 
なお、「絶対に放さない!」などと豪語する硬い思い込みの強迫性は、一種の精神病理であって、信仰とは何の関係もありません。信仰は、人が「絶対」でないことを知ることです。
 
楽山は、知ったかぶりをして、信仰が、こぼれ落ちる、などと言っていますが、真の信仰は、こぼれ落ちることはなく、ふつうなら絶望的な状況でも、尽きない希望となるものです。反キリストは、そのような希望を持ったことがないから、自身の欲望芝居を演じているに過ぎません。醜態です。
 
信仰は、絆(きずな)か縁(えにし、よすが、えん)のようなものであり、究極的には喩えようのないものです。楽山は、知らないものだから、物品のように扱って、語ったつもりになるのです。「失わないぞ!」「放さない!」・・無知と無恥の戯言です。底冷えのする楽山の捏造概念です。
 
「わたしは、エル・カンターレを信じる! この信仰を守りぬく!」と決意し、自らを奮い立たせないではいられない信者には、この事実に気づいてほしいと思う。
 
「自らを奮い立たせないではいられない」ような信仰の賜物を、楽山は知りもしないで、十把一絡げに、悪に気づけと言っています。気づくべきは、楽山の卑怯さと、無反省、無責任な言葉です。何も信じない自分信仰の、おぞましさだけの楽山の発言です。
 
何も気づかない自己愛性人格障害の楽山が、「気づいてほしい」などと言うのは、おこがましいことです。恐ろしく鈍感で、冷酷で、いい加減な楽山が、偉そうに忠告してくるのだから、"お前に言われる筋合いはない" とでも言葉を貼りつけて、関わらないでください。
 
そうすれば、きっと、「信仰するぞ!」と気張る信仰ではなく、もっと自然で、ゆったりした信仰を得られるはず。
 
「自然で、ゆったりした信仰」と楽山が言っているのは、反キリストの楽山自身のように、何も本気では信じないことを意味しているに過ぎません。反キリストの楽山は、宗教に怨念を燃やしているだけで、信仰者や求道者を頷かせるペテンの手練手管を弄しているだけです。
 
信仰は、「信仰するぞ!」ではなく、離れられない縁のようなものです。そこに在るのは、楽山の詭弁と嘘の誘導や印象操作ではなく、温もりと潤いに満ちた共感であります。言葉では表せない共感に似たようなもので、楽山には一切ないものなのです。
 
人の気持ちが分からない、人の気持ちを察して、自分をコントロールできない楽山の言うことを真に受けないでください。楽山は、かっこつけて、忠告めいたことを言って、役に立つ助言者の自分という慢心を求めているだけなのです。
 
 
 朱に交われば紅くなる? 
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に交われば臭くなります。
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
楽山が、「反発を感じ」るのは自己愛からでしょう。今「一理ある」と思うのは、今、多くの人を、自分の欲望に沿うように染めたい教祖願望からでしょう。楽山に交われば黒くなり、臭くなります。楽山の、嘘臭さと詭弁臭さに、染まらないでください。
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山自身に染まれば客観的になり正しくなる、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、本を悪書に、思考を邪教に染めて、堕落し続けています。楽山は、同じようなことを繰り返しています。楽山は、自己中の自己愛性人格障害なので、客観性から最も遠い人です。
 
楽山の、自分に近づき、他を遠ざけよ・・とでも言うような誘い文句に惑わされないでください。楽山に近づくと、最悪の場合、人格が鈍麻し破壊される恐れがあります。そして、楽山と同じように、一見正しそうに見える世迷言を言い続ける、楽山と同じような亡者になるでしょう。
 
(ネットより)
「世迷言」は、「ひとり言のように愚痴を言うこと」や「わけのわからない内容を繰り返し言うこと」などを指し、人の発言・意見などをののしって言う際に使うことが多い言葉です。「よまよいごと」と読み間違いをしてしまう人も多いのですが、正しくは「よまいごと」なので要注意!
由来は、「愚痴を言う」を意味する「よまふ」の連用形に、「言葉」を意味する「こと」を合わせた言葉だといわれています。
 
 
世迷言(よまいごと)

世迷言(よまいごと)
 
 
(2021年11月11日)
 
 
 
キーワード: 迷
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
 
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  近道
 
近道をしようとハンドルを切った
広い道が狭くなった
曲がりくねった長く細い道
 
坂がきつくなった
舗装が途切れた
知らない家の前で行き止まり
道に迷ったということだ
 
バックするか
曲がりくねった長く細い道
途方に暮れた
日も暮れた
あぁ どこへ行くつもりだったのだろう
庭先を借りて方向転換
そうして今ここに暮らしている
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
 反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
 これを実践するのは難しいんだよなあ。
 恥ずかしながら、自分もそんな風です。
 これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
楽山には、良心と良識がありません。もしあったら、とうに、弁明できなければ書かなくなっていたでしょう。実際は、まともなつもりだけで執拗に書いてきたことが、楽山の欠陥を表しているのです。これからも、亡霊のように、よれよれの世迷言を書いてくるのでしょう。
 
 
 
 
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