大事なもの 3
    (過去の記事を加筆して再録)
 
 
大昔からの、聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
今それら奇跡を当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こっていない奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
それに
物や肉体の奇跡を起こすのは神の業です。
神に任せるべきことです。
 
むしろ当てにすることは的外れと知るべきです。
共感できないのだから心の縁にもできません。
 
 いたずらに感情を高ぶらせて
 信仰と讃美を豪語するのは偽善者の三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人々と交わり
キリストが人間を洞察して
人間の悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
共感なき者たちによって捕らえられ
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として人間であるべきです。
天国を待ち望む民であり続けるためには
考えるべきことがあります。
 
少なくとも今は
当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で覚えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように耳に繰り返したりして
それで深めようとする信仰観は
むしろピント外れの偽善的徒労だと思います。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感されたのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として聖書から学ぶべきことであり
信仰者として縁(よすが)にするべきことなのです。
 
それを理解することを、魂の奇跡と呼んでいます。
物や肉体の奇跡に対して
心の奇跡と呼んでもいいと思います。
 
神の僕(しもべ)ぶった高慢ではなく
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋に
主の眼差しが注がれてゆくように
祈り乞い願い
癒しと救いの成就を待ち望む人間の姿を見ていただきましょう。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
嘆きがあれば
嘆きを正直に告白して祈りましょう。
それが祈りだと思います。
 
できることをして
心から感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが信仰生活だと思います。
 
 
 感謝と讃美について
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
1:5
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。 
1:6
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
 (ローマ1:5-6、新約聖書)
 
「愛のうちに」「ほめたたえるためである」と書いてあります。感謝と讃美は、しなさいと言われて、するものではありません。せずにはおれないときに、正直な気持ちで、するものです。
 
 (コロサイ人への手紙、口語訳)
3:15
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。 
3:16
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
 (コロサイ3:15-16、新約聖書)
 
「いつも感謝していなさい」・・できるでしょうか。この訳のままでは不自然な感じを受けます。
「感謝して心から神をほめたたえなさい」と書いてあります。感謝は、時々に生まれるものであって、しなきゃいけないからするものではありません。
 
「感謝して」「心から」・・つまり、感謝は、心から溢れるように、正直な気持ちでするものです。
 
感謝と讃美は、無理にして、それが信仰だと思うことのほうが、危ういのです。特に、讃美は、心からではないときにすれば、信仰自慢になってしまいます。
 
感謝と讃美は、折々に、自発的に、そうしたい気持ちに満たされた時に、するべきことです。それよりも、罪人としての自覚が大切であり、罪深い自分を、正直に捧げることが、信仰においては、必須だと思います。
 
 
祈りと孤独

祈りと孤独
 
 
(2018年04月23日、同日一部修正)
(2020年11月11日、若干加筆して再録)
(2021年11月13日、再録+)
 
縁(よすが)
業(わざ)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
僕(しもべ)
讃える(たたえる)
 
 
 
  口をあける
 
死なずにいることしかできませんでした
夜ひとり口を空ける
呆けて待つ姿勢
それではいけないか
それではいけないな
 
遠くで犬が吠える
狼の遠吠えに聞こえる
過去を呼んでいるように聞こえる
次々に犬が吠える
今を憎んでいるように聞こえる
また遠くで吠える
未来に向かって叫ぶ牙のようだ
 
遠吠えしてみたい
吠えてみたい
叫びたい
夜ひとり口を開ける
声が出ない
入る
 
聞き取る間もない
 
犬歯を折る
口を引き裂く
喉を突き破る
頸椎を砕く
延髄を貫く
 
罪か罰か知る由もない
 
過去を呼べない速さで夜の風穴
涙腺を干す
 
 
  曲がり道
 
曲がり道はいつも刃物
十字路で振った
三叉路で濡らした
分かれ道を過ぎて拭いた
血と汗と涙
切った先に進むしかない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
それゆえ光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
 
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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