楽山の善人芝居
 
 『生命に刻まれし愛のかたみ』三浦綾子著
 2021年12月11日 楽山日記(LD)
 
 
前川正氏は、三浦綾子さんが、結婚する前に、付き合っていたキリスト者のようです。前川正氏は、1954年に死去。(ウィキペディア三浦綾子より)
 
楽山の、世辞の、きれいごとです。今までも、詩のつもりの言葉で、丁寧語で、ボンヤリ言語で、トホホ言語で、言い逃れのための白々しい褒め言葉を「ただただ」じゃからと使いまくっています。
 
本書は前川正氏の書簡、日記などを収録した遺稿集である。これを読むと氏は生身の人間であり、男であったことがよく分かる。もちろんだからといって氏への尊敬が薄れるということはない。むしろ生身の人間として、男としての悩みや苦しみを背負いつつも、あれほど高潔に生きたのだと思えばますます尊敬しないではいられないくらいである。
 
キリスト教と神を否定している楽山が、よくも「尊敬しないではいられない」などと書けるものです。前に書いたと思いますが、嘘を吐けば、楽山の履歴が、嘘を暴くことになります。他者を利用しても、自己愛に利用するだけで、誰も尊敬などしたことのない楽山です。世辞を書いても無駄なのです。
 
人であれば病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり、気の利かない看護者に怒鳴り散らしたり、恋人には未練たらしいことを言い募ったりしたとしても致し方ないことである。
 
楽山は、「病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり」しているようです。誰にとっても必要もなく役にも立たない意見を、執拗に書いて、安い言葉でヒューマニズムを気取って、粉塵のように、邪悪な正体を煙に巻きたいのでしょう。
 
けれども氏は最期のときまで看護者への思いやりを忘れなかったというし、恋人に対して紳士的な態度を少しも崩さず、その将来を気遣った手紙を残しているのだから感動せずにはいられない。
 
「感動せずにはいられない」・・同様です。自分の本心からのメッセージを書けないので、尊敬、感動、というような陳腐な言葉しか思いつかないのです。そして、他者への「思いやり」などの高等感情を持たないので、その言葉を並べることしか出来ません。だまされないでください。
 
また氏は優れた能力を持ちながらも、それを存分に発揮する機会を得られず、両親に孝行したくともそれも思うようにはできない状態のまま逝かねばならなかったのである。この無念さはどうだろう。氏はこういう状況に陥っても、決して捨て鉢になることはなく、自身の努力を続けつつ、他者をもいたわっていたのだから、これにはただただ頭を垂れるほかない。
 
「ただただ頭を垂れるほかない」・・楽山の、こんなにも人を尊敬できる自分は優しい人という嘘のアピールです。「ただただ」・・などと、大仰に書いて、真剣さをアピールしても、ただただ、純粋な人たちを、手のひらに乗せて玩び、自己愛のために悪用して、貶めているだけなのです。
 
自分は虚無主義者とまでは行かないにしても、厭世的、悲観的なところが多分にあるのだけれども、前川正氏のような人が存在したのであれば希望を持ってはいけないということはないようにも思えてくる。なんだか『道ありき』を再読したくなってきた。
 
虚無でも厭世でも悲観でもなく、楽山は、邪悪なだけです。だから、今回も、自分を高めるためにだけ、書いています。反省せず、責任を負わず、嘘と詭弁で人を惑わし、悔い改めのない楽山には、希望は、欲望と企みだけがあって、生まれようもないのです。
 
とうに偽善はバレているのに、まだ正常な良識の人を気取る楽山の言は、どんなに、善人ぶって書いたとしても、言葉に三文芝居の安いセリフしか書けないという大根役者ぶりです。見るも無残な駄文です。いつまで、腐った人間像の典型を、得意げに表してくるのでしょう。
 
今までの、反キリストとしての、キリスト教と神を冒涜したことを、反省も修正もしないで、このような記事を書くことが、むしろ証拠となって嘘がバレているのです。楽山はこれからも、似たような記事を書くでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は凶悪です。
 
ありふれた言葉を並べるだけで、心を表せない楽山です。批判者を怒らせたいのでしょうか。こちらは、駄文という評価を貼り付け続けるだけです。楽山は、一生、安い芝居を続けるのでしょう。楽山が無視しているところで、楽山の偽善の悪臭が、楽山を否定してゆきます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
この例え話では、善人ぶる高慢が偽善という救いがたい最悪であることを、キリストは伝えています。聖書をを学習すれば、嘘吐きが「尊敬」「感動」「希望」などという褒め言葉を使って、何も反省せず、悔い改めることなく、きれいごとを並べていることも分かってくるでしょう。
 
 
偽善臭

偽善臭
 
 
(2021年12月13日)
 
 
 
inotiyorokondeiru’s blog「命が神?仏?」2021-12-11 
https://inotiyorokondeiru.hatenablog.com/entry/2021/12/11/170000
 
「命よろこんでいる」という言葉は、心で唱えてみると、なんとなく、命に励まされているようで、心が落ち着いて、安らかに温まる感じがするので、優れた言葉です。人知はバカにはできません。
 
そして、信仰に必須なのは、知識や理屈ではなく、共感です。
しかしながら、
 
>神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか。・・・
>又、失敗ばかりする人間を創った責任はどうするのでしょう。
>絶えず争い合う人間をなぜ創ったのでしょう。
 
この、信じてもいない神の責任を問う高慢は、どうでしょう。楽山に似ています。こういうことだったか・・と思い、かつ、驚いています。楽山のツイートに、「いいね」を入れたこのブログ主は、楽山の仲間でしょうか。楽山の成りすましでしょうか。陰険なところも似ています。
 
すでに書いてきたことですが、神の辻褄が合うから神を信じるのではありません。このブログ以上の、支えとして、絶対孤独からの解放を与える祈りの信仰だから信じています。そういう真実をまるで理解しないで、神を人の辻褄で判断してくる無理解の楽山に、宗教を語る資格はありません。
 
このブログ主については、同じようなことを繰り返すかどうかによって、正体が分かってくるだろうと思います。楽山と社交の丁寧語だけで付き合って、だまされている人か、楽山の仲間か、それとも、楽山自身、即ち、HNを変えた成りすましなのか。
 
楽山の病質の根深さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。楽山は、もはや、生きていない、人間らしく生きる活性など持っていないと思います。命も、神も、人も、命も、よろこんでいない楽山です。極めて悪質だと思います。匿名のネットは、悪の巣窟ともなりえます。
 
人は、生き方を選択することは出来ますが、成り行きを決めることは出来ません。だから、成り行きは、神の導きだとしても、神がどうするかを、人は知りません。そこで、知りもしないし抗えもしない神に、恐れもしないで責任を問うか、神を仰ぎ神に祈るかが、分かれてくるのです。
 
 
 
  「それ」からの手紙
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
映らない夜が行きます
 
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  正当性
 
熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
 
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
 
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
 
いわれもない念仏
永遠によみがえることはあるまい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山の病質の根深さと狡猾さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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